世界は称賛に値する

日記を書きます

火曜日の始まり

▼▼思考において特に顕著ながら、習慣や癖を直したい、ってよく思うけど、習慣や癖を直す習慣や癖を、あまり構築できてない、っていう実感も同時にあって、つまり、現時点では直せるつもりも見込みもないのに「直します」と言っているような姿であり、あうあうあ、という悔悟混じりの譫言は結構思っている。可能性に賭けているとは言える。可能性に賭けていることをあえて口にしてしまう癖があって、なんだかな、って話も言える。
▼▼起床時刻は午前6時半。勤務は休み。昨日と同じような出掛け予定があるな。読書に関しては、昨日『零崎人識の人間関係 戯言遣いとの関係』を読み終えて、引き続きで小説『V.T.R』を読んでいる。最近読んだ『スロウハイツの神様』の関連作だ。最後となる『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係』を買うのではないかな。

昨日読ませていただいたものの日々記録です。自分に向けたニュースサイト風。

→ 「生物は進化している。そして進化は積み重ねだ。前からあるものが形を変え、改良されて、別の何かになるのだ。新しいものがいきなりパッと出てくることはない。真や善や美という概念も同様だ。一番上位にあるものは、一番後に出てきたものなのだ。一部の動物は美を解する。犬は善を解する(と思う)。しかし、真という概念は、言語を獲得しなくては扱えない。つまりそれを解するのは人間だけなのだ(イルカについては知らない)。きっと美しきものが善きものを生み、善きものから正しきものは生まれたのだろう」

→ 「ゲームとは、料理、音楽といった感覚器官に対しての最適化を行った結果と同じように、「思考、行動」に対してのフィードバックに最適化した形でのものである。それは、元来の遊びの目的、物事の概念化とそれに伴う将来の行動の予行演習といったものをはるかに超えて、現実よりも強いフィードバックを持ってしまったものだ」

→ 「こうして断言調でものを書くとき、余分ななにかを切り捨てている。頭に浮かぶ少しの疑念を一瞥ののち見捨てている。ほんとうはその小さな疑念まで考え抜いたうえで断言するのが誠実だ。でも最近はそうしていない。効率。そういうことだと思う。生産性。そういうものが僕をこんな判断に導いている。たとえば満足に読書するためにはそういう態度が必要だ。そうか? しかし断言しすぎのようにも思う。絶対的な言明が事実上不可能だからといって常に奥歯にものが挟まったような言い方をするのも快適でないが、かといってすべてを断言するのは思考の放棄だ。極度の、あきらめた〈大人〉だ」

→ 「話を自分なりに整理してみると、そもそも人は個人として自立「すべきだ」と全体に対しての道標を示してしまう時点で、それは幻想(モデル)に騙され信じることになっちゃう個人教とか自立教のようなものに思えるわけで、個人の自立というものは、なろうと意識してなれるものではなく、自然とそうならざるを得ない「状態」として位置付けたほうがしっくりくる。状態ではなく目標と位置付けてしまっていることで、個人化もそういう「個人化を単位とした集団の設計」という幻想の類の仲間入りをしてしまうのでは。  つまり、池田先生の主張は本人の語っている主旨に反して、個人化社会というディズニーランド的な宗教ビジネスになっちゃっているんではなかろうか、と危惧したくなってしまった」

→ 「けれども、その一文だけが、僕を変えたとは思わない。その作者の書いた本を読み続けて、僕はこの人が正しいと思う、と思うようになってきていた。そう思ったのは、その人に実績があり、また未来を見ていて、さらに精密な生き方をしていたからだ。つまり、憧れていたからだ。  僕はよく「言葉がすべてだ」「言わなければ伝わらない」と言っている。だが、どんな武器も、下準備がなければ、何の効果も与えることができない。言葉に強い作用を求めるのなら、手を尽くして準備することが必要だ」

→ 「だから、この第三部を読む快感は、図式の悪ノリ的な増長によって言葉がどんどん現実やリアルさ(という重力)を裏切り、踏みにじって、突っ走ってゆく (「内容がない」というのはこのような意味でだ)、その小気味の良さにあるように思う」