世界は称賛に値する

日記を書きます

日曜日の始まり

▼▼昨夜は送別会があって、時間が取れたので結局参加してみた。送別会というものを題目に据えた文章は、以前、数回、記述したことがあると思う。描写した記憶があって、説明した記憶もある。▼▼同じようなことを繰り返すのがわりと苦手なのだよなあ、と、改めて思った。以前書いたことがあるのと同じような視点のものは書きなくないなあ、とは思ってしまうからだ。類似品は書きたくない、と思ってしまう。違うところを目指したくなってしまう。▼▼別離が好きである、という冒頭文で始めようかな、と考えていた。のは、そのせいだ。▼▼実際問題としては、別離はまあ嫌いかなと思っている。思っているけど、別離を称揚するような心理や心境も、想像できなくはなくて、なので、巧いこと調整して、別離よいよねー! って言ってみせることも、まあ可能かな、と思える。微塵の迷いもなく完全無欠に別離を嫌いうるほどの「不幸と悲劇にまみれた別離」には流石に遭遇したことがないので、巧く誤魔化して揺るがすことは可能だろう、って思える。好きな別離も嫌いな別離もあってつまりケースバイケースです、なんて区分けしてみせるだけで揺るがせそうな気もする。▼▼別離の好き嫌いで送別会を描けなくなってきたぜの話。
▼▼起床時刻は午前8時。勤務開始は午後12時。眠いなあ。でも、動こう。忙しいはずである。なので動こう。補助や援助に繋がると認識させれば精神も思考も燃えるしなー。

読んだことを感謝したいがための昨日読ませていただいたものの記録です。

→ 「人間がいただきますして一口目に向かう時に絶対しない形に、下を向いた男の口が不気味にゆがんだ。いきなりか」

→ 「1日に1回でも、1週間に1回でもいいので、一人の時間が取れたときに、本当の感情は何だったのか振り返ってみて欲しい。  言葉で表現してみて欲しい。  目の前に原因となった人物がいると想像して、気兼ねなく言葉をぶつけてみよう。  意外なほど強い感情が溢れ出てくる。  ああ、本当はこう思っていたのか・・・と再確認できる。自分が無理をしていたことに気づく」

→ 「自分が気持ち良くなれない人が他人を気持ち良くできますか?  よしんば、自分が我慢したり犠牲になることで、他人を気持ち良くできても、  その相手は自分が我慢したり犠牲になっていることを知っても、気持ち良くいられる人ですか?  また、それを知っても気持ち良いままでいられる人を気持ち良くしたいですか?」

→ 「0から1に進む人と、1から10に進む人ではやはりその試行回数が断然違って、0から1のときの失敗の数こそが、実はその後の対応の広さを作ったりする。いくら、作るのが早かったりしても、その試行をこなさないならば、それは知っている範囲内での生産になり、ある程度のところで成長は止まってしまう。  私はその試行を行うからいいけど、ほかの人はそれを体験することができないというのは、果たして集団としてみたときにベストであるのだろうか?とか、非明示的にそのプロセスを隠蔽してきれいにしてしまうことで、色々失ったりすることもあるなとか」

→ 「実際、大学のアトリエは大きいし、学生は制作の面でいろいろ恵まれてもいるから、多くの人が「大作」をつくるのだけど、でも卒業後にそれをどうしたらよいかわからなくて(というか、どうしようもなくて)、廃棄してしまったりする人も多いのだが、いろいろ面倒だし場所もお金も食うにもかかわらず、それをちゃんとまだ持っているということは、そこに何かがこめられているのだろうし、その何かを今でも重要だと思っているということなのだと思うのだった。物理的にその作品が存在するということも勿論重要だけど、そういう作品をつくったという経験だけが、人を(作家を)支えるんじゃないかと思う」