世界は称賛に値する

日記を書きます

火曜日の始まり

▼▼試験勉強の一環で会計関係の勉強をしていたら楽しくなってきてしまって嵌っている印象が最近はあるかな。駄目だ、と思った。試験対策としては全然駄目である。でも、決算書とか楽しすぎるのですよなー。軽々とは理解できないような複雑かつ細微な情報を何とか把握しやすくしてやろうと工夫したもの、なんて、好きすぎる。ので、まあよいか。
▼▼起床時刻は午前9時。勤務は休み。出掛ける予定が少しある。読書は『スロウハイツの神様 下』を読んでいる。読み終わり間近だ。想像以上に好きなものと化しつつあるなあ。読み終えたら『零崎人識の人間関係』を買い始めようか、と考えていた。

昨日の巡回記録および極力忘れないための記憶インデックスを兼ねたニュースです。

→ 「そもそもアクリル絵の具は、濡れている時と乾燥した後とでは、色彩だけでなく、光沢や量感まで著しく変化するから、その時間による変化をあらかじめ想定していなければ、アクリル絵の具で制作することは出来ない。今、見えているもの、今、手元にあるものを、直接的に操作するのではなく、その先の、もっと遠くにあるものを、その不確定な予測の出来ない部分まで含めて操作する、というのは、制作する時には当たり前の事態で(というかむしろ、時間のなかで生きているというのはそういうことで)、この作家は、そこにある遠隔操作性を、不可視のアルゴリズムを媒介することで、意識的にさらに広め、さらに遠くのものを操作するように制作するのではないかと勝手に推測する。それによって制作の技術を変化させ、制作の時間を変化させ、作品が含む時間を変化させ、つまり生きている時間そのもの変化に働きかけようとするのではないだろうか。そして、操作する対象を遠くへ(外へ)と広げることは、そのまま、その反射として、それを操作する者の、頭の表面だけではなく、頭の深部までをも用いた(内への) 操作を必然的に要求することになるはずだろう(意識出来ないものまでを強引に引っ張り出す)。「釉薬による彩色」は、アクリル絵の具以上に「遠く(深く)」へ「外へ(内へ)」と、その遠隔操作性を押し広げる役割をもつのではないだろうか」

→ 「声を力強くする最良のテクニックに、詩歌の朗読があります。特に好きな誌歌を選び、暗記したら、車の運転や散歩をしながら暗唱しよう。大勢の前で、劇をしているつもりでやろう。言葉には感情と力強さを込め、強調し、エネルギーを注ごう。ゆっくりやること。言葉に強弱をつけて、詩歌の意味を変化させてみよう。それぞれの語がピアノの鍵盤だと想像しよう。強調する語句をいろいろに変えてみよう」

→ 「テレビってやっぱりすごい影響力だなーと思う。TL見ててもそれはそう。ネットが普及してずいぶん経つわけだけど、テレビなくならないと思う。たとえば俺が子供時代にそうだったように、流行の震源地みたいな力はもうないし、だいたいそういう考えかた自体がもう成立しない、らしい。価値観の多様化っていうんだっけか。でも少なくとも、共時性は強力に担保してる」

→ 「主婦にもわかりやすく言うと、何か横切った時、「今の何っ!?」っていう就活生と、「速いっ!」っていう就活生、どちらを取るのかってこと。俺がもし社長になったら、もうそんなのでいいね」

→ 「人の判断とは、理性や利得といった論理プログラム的な条件設定から算出される最大最適解予想から己の行為を決断しているわけではなく、その個人の中に溜まっていくゴロッとした感情やそれを発散させたいといった情動、あるいは個人が自分の外部を観察して蓄積されていった体験的記録そのままを考えなしに真似てみたり、反発してみたり、否定するといった、行き当たりばったりな条件反射的ランダム行動の結果に過ぎないのではないかという考え方がある。ただし、それら情動や条件反射やランダムには個別的な性質の差が個体間に存在していそうでもあり。大雑把な喩えとしては、攻めっ気が強い反射を行なう人や、保留して観察する判断を選びやすい人や、とにかく負けて下手に出てダメージを減らそうとする人など。個人の置かれた環境や対者の状態(もしくはその「対者は今こういう状態にある」と個人が抱いた認識)などからによっても、それら個人の持つ性質のパターンはいかようにも変化するだろう」