世界は称賛に値する

日記を書きます

問いから始める型、よりも奥にある違和感から型

▼▼問いから始めるとよい、なんて刷り込みや盲信、あるいは記憶と学習があって──影響を受けていて、言葉や文章を書こうとする時に、問い、を始点にして探索や検索を始めてしまう癖がある。問いから始める習慣が出来上がってしまっている、とか言える。疑問文から思考を始めることに楽しさを覚えるようになってしまっている、とも言えるかな。
▼▼けど。違うなあ、って思った。疑問文からでは始まらないのでは? って思えた。単純明快で型通りの疑問文だけじゃ空回ってしまうばかりで──浅薄な空虚を覚えてしまうばかりで、言葉も文章も沁み出してはこないよなー、なんて思えた。のであった。▼▼経験則的に思えた、とは言えるかな。単純明快型通りな疑問文に固執してみせるだけじゃあ言葉と文章に詰まってしまうような状況が、実際沢山あって、違うか、って思った。
▼▼疑問文よりは違和感かな、と現段階では考え始めている。▼▼疑問文を構築している言葉の向こうに心底からの違和感があるかどうかが鍵だ、なんて換言してもよい。
▼▼言葉と文章の──あるいは思考の、起点、というものを考える時に、問いかけ、という「型」で処理を考え始めてしまう癖が、繰り返しになるけど、あって、けどまあ、打破したくて、現時点では文章化してみている。▼▼疑問文をただただ掲げているだけじゃあ駄目なんだよなー。認識下にある違和であろうとなかろうと、些細な違和であろうと莫大な違和であろうと、いずれにせよ、違和感が有無が重要、ってことは、まあ感じるところがある。▼▼挑発的な違和感や迎撃的な違和感が言葉を紡ぐ燃料としてはよさげ、っていうのも思う。思わず言葉が引き出される違和感ってある。逆もある。▼▼違和感って言葉は範囲が広すぎて──判定が雑すぎて、指針談義として巧い説明とは言えなそうだなー。