世界は称賛に値する

日記を書きます

木曜日の始まり

▼▼言葉や文章を実際に書いている時に深く下りていける思考があるわけだけど、普段から下りていけないなら駄目だろうともよく思うので、言葉や文章に乗っている時の自分は好きじゃないなあ、と思う瞬間がごくごく稀にないではない。言葉や文章を視認してる時は、記憶に割く容量が減って、視野の移動や距離に容量を回せるから、結果として深まりやすくなる、って認識なんだけど、どうなんだろう。目の前に「書きつけて」おかなくてもできる、何か、はないものかなー。部屋の整理とかが比喩になる、かな?

昨日読ませていただいたものの備忘録的な自分ニュース風のものです。感銘の記録。

→ 「しかし、ここで、おおもとにあって作品たちの生成を可能にし、作品を内的に律しているはずの「構造的な複雑さの感触」(目指されているもの)の同一性を保証するものはどこにもありません。ぶっちゃけて言えば、それを描いている私が一応の納得を得られた、という以上の根拠はありません。ただ、私にとってその感触を導いてくれるものたちがあり、それが、葉の生い茂る植物のもつ視覚的な複雑さです」

→ 「それぞれのキャラクターに続いている時間があって、主人公と同じだけ時間を重ねているのがわかる。だからこそ、最終巻はもうあちこちでぐっときてしまってなかなか読み進められなかった」

→ 「「世界の中心が欧米からアジアに移った後の世界」をイメージしているんだ。そしてこれは非常に正しい世界認識だと思う。もちろんカリカチャアライズしているので(おちゃらけだし)ストレートに分かりに、、、いや、逆かもしれない、そうしているからこそ、イメージしやすいのかもしれない」

→ 「両方助ける!と叫ぶような「無理難題」なモノで。こういう二元的選択肢を、第三の道の選択肢で逃げ切る方法は、土壇場になった場合はもう不可能なんだよね。だから「準備」と「覚悟」がいるようだ」

→ 「時々自分の人生の残り期間を横軸にとりながら、この3つのバランスを調整していくのも悪くないかもしれません。同時に3つ選ぶのは難しくても、時期をずらせば全部を楽しむこともできるのですから」