世界は称賛に値する

日記を書きます

粗雑とか安直とかは幸せには似合わなくて、だって、誰かの幸せは誰かのものなので

▼▼わかりやすい幸せ、を軽んじたり蔑んだり疎んじてしまったりするところが稀有じゃなくあって、わりと妥当な統計的判断なこともあるとは思っているのだけど──常態的な姿勢として問題を感じるところではないのだけど、まるきり勘違いなこともあるので、わかりやすさつまり安易や安直を捨てるだけじゃ駄目なんだなー、って最近はよく考える。
▼▼豪華に擬装さているけれど実際は脆くておんぼろな幸せ、が安売りされていることは確かに多いのかもだけど、安売り品の中に図抜けた幸せが眠っているような掘り出し物的な可能性だって稀にはありうるだろう なんて考えてしまう。のだった。
▼▼というか、って思うこともある。というか──。
▼▼幸せが何かは人によるのである、的な要素を踏まえると、幸せってここにあるよ、という話は比較的無駄なものであって、勘違い見当違いも多々ありえてしまって、だからつまり、掘り出し物的な幸せなんていくらでもありえてしまうのではー? なんて疑問も浮かぶわけだけど、諸々の構造がまるっきり違う君と僕、ってわけじゃない以上、おおきく見れば、精神面での喚起構造が似ているところだってあるはずだろう、と思うので、巧く踏まえれば、せめて「幸せ側にあるなあ、と判定できる」ことくらいは共有できる事象がありうるんじゃなかろうか、って最近は少し考える。強弱はともかく位置は一緒にできるぜ、みたいな。気休めじゃない話だと嬉しいなって思う。