世界は称賛に値する

日記を書きます

ディシディア・ファイナルファンタジー

▼最初はスコールを選んで、強化した。FF8が好きなのだ。だいぶ好きだと思う。意識せず無くしていたものを取り戻す物語だからだろう。同様の理由でアルティミシアも強化してみた。いや、アルティミシアは特徴が際立っていたからか。遠距離しか駄目だが、遠距離での選択肢が多彩で、ほかとは動きが違う。なんていう極端な戦略性が好きだったりもするのだ。軽くセシルを育ててみたりもした。というのも、極端が目についたからだろう。戦闘中に性能を変化させることができる、という点に強く惹かれた。
▼極端な戦略は目指しておこう。というわけでゴルベーザの強化も始めてみた。近距離攻撃と遠距離攻撃が同時に発生する、という特徴がある。はっきり言って、変だ。変だと思う。性能や特徴を言語化したものとしてはほかではほとんど見たことがない。はず。
▼以前から、初期性能の良さに頼りたくはないなー、と思っているところはわりとあったりする。格闘ゲームの訓練時なんかは顕著に考えてしまう。妙に自覚させられる。初期性能が抜群によい、なんて言われるようなキャラクターは可能な限り使わないようにしたいなー、とか思っているのがわかる、のだ。わかるし、現状でもつまり、ディシディアに対して同じようなことを思っている。
▼性能に頼りたくない、性能で勝ちたくない、とか思ってしまうのは、所詮努力家は天才児には敵わないんだよ、ということをなるたけ否定したいと考えていることによるものなのだろうか。世界観として好んでいない自覚はある。のだけど、やだなあ、と感じてしまうことの源流にもなっていたりするのだろうか。
▼あるいは、とも思う。あるいは、飛び抜けた性能なんかに頼らなくても勝てるだけの技術を持ってるはずだ、とか、図抜けた性能に頼っちゃったら巧みな技術で勝ってみせられなくなるじゃん、とかいう、信頼とか傲慢とかによるものなのだろうか。
▼両者だろ、とも思う。というか、同じことの言い換えじゃん、とも思った。
▼技術があるならば――技術を要するけど――巧く使いこなせるなら、強いよー、なんて言われるものには、結構惹かれたりするよなあ、なんて思えるところは明確にあって、だから、技術に対する称賛と自負、みたいなのはあるんだろうな、とは感じたりした。
▼僅差ならば訓練と技術で――つまり後天的要素で、埋められるはずだ、と信じたいだけなのかもなー、とも思った。称揚するために訓練や技術をあえて崇拝してます――するようにしてます、みたいなところは、思っている以上にあるんじゃないかなー、と思った。