世界は称賛に値する

日記を書きます

読解の多様性、が、経験からわかるようになった、のは、運良く此処にいることができていたからだろう、と思う

▼でも、と思う。でも、と、前項から続けて考える。
▼でもだ。幾多の、数多の、読者ってやつは読みたいように読むもんだぜ、を観察したことで――観察できたことで――観察する機会が持てたことで、読みたいように読んでしまう、という「噂の現象」が、確かにあって、こういうことか、なるほどね、と思える境地まで、達することが、できた。達することは、できた。現象が持つ形式とか構造を何とか掌握することが可能になった。わけだけど、でも、逆に言えば、観察できる機会に恵まれなかったら、観測できる環境に置かれなかったら、脳裏に「例」を浮かべて、納得したり理解したりすることも、できなかっただろうな、なんて思ったりしたのだ。
▼でもって。
▼改めて考えてみると、誤読、というか、恣意的読解、の事例に、間近で、数多く、遭遇できたのって、かなりの部分が「ネットのおかげ」なんじゃないかな、ということに、ふと気がついてみたのだった。言い換えるなら、この地にある文章群を読み続けていたおかげなんじゃないか、とか思ってみたのだった。あるいは、この地にいる執筆者たちと出逢うことができたおかげなんじゃないか、と思ってみたのだった。此処にいたおかげ。
▼議論、口論、喧嘩、対話。などが、此処には比較的多くある、と判断している。というか、オフライン環境よりは間違いなく多くあるよな、と「個人的には」かなりはっきり言うことができる。という判断を、敷衍していいのかはわからない、というか、敷衍することが妥当かどうかわからない、のだけど、敷衍してみるなら、だからあんまりオンライン環境に触れていない人は「恣意的読解の例になるもの」に出会いづらいのでは、と考えることが、できたりもする。するから、思う。思うのだ。恣意的読解に気をつけろ、なんていう言葉ってのは、あんまり届かない言葉なんじゃないかな、と。
▼読みと読みのぶつかりあい、のようなもの、を、幾度となく観察したことで――何度となく観察できたことで、やっと見えてきたものを――なんとか見通せたものを――苦節を重ねて掴み取ったものを、読みと読みがぶつかりあいがちなところ、に普段いないひとに対して、誰だって普通はすでに見えてることだろ、と、期待するのは、前提するのは、無謀なのではないか、なんて思ったのだった。あるいは、安易に伝達できる、とか思ってしまうのは、無茶なのではないか、なんて思えたのだった。
▼別の視点からも考えておこう。なんとかわかるようになったからって、わかるまでに費やした時間や苦節をすっかり忘却して、わからない段階が誰にでもありうることを、無視してしまうような、無様な真似は、やめとけ、なんて思ったのだった。