世界は称賛に値する

日記を書きます

転校生とブラックジャック(永井均)

転校生とブラック・ジャック―独在性をめぐるセミナー (双書・現代の哲学)

転校生とブラック・ジャック―独在性をめぐるセミナー (双書・現代の哲学)

先生――それなら、正直に言うよ。一つは、ぼくは学術論文という形式では哲学を表現するにはふさわしくないと思っているということ。これまで書いたものでも、学術的形式をとらない著作のほうが、本としてだけでなく、学術的水準そのものも高いんだ。『〈子ども〉のための哲学』は、それ以前に出した本や論文より一段階高い水準に達しているし、『翔太と猫のインサイトの夏休み』は、他の本よりずっと高水準の議論をしているし、『マンガは哲学する』は、ぼくにとっては初めて中心化された世界という考え方を虚構世界に適用した画期的なものだからね。もう一つは、ぼくには、確かに哲学的な問いはあると思うけど、どうも哲学的な主張というものがないんだ。ところが、ぼくが何か問いを出して、それについて考えられる議論を展開すると、たいていの人は何かを主張していると思い込んでしまうみたいなんだよ。主張だと思い込まれて、批判だとか反論だとかをされると、変な話だけど、その批判もまたぼくの問いの一部だった、としか感じられないんだ。だから、この本では、ぼくの問いたい問題といまのところ考えられる議論とを、きみたち複数の人物の対立する主張に分散させて、ぼくが何か特定の主張をしているのではないことを際立たせたく思ったんだよ。だから、対立しているかに見えるすべての発言が、言ってみれば、ぼくの主張なんだ。
学生C――ぼくなんかが、そういう批判や反論を代弁している代表的人物なんでしょう?
先生――いや、違うよ。たしかに、活字になって公刊されるような批判の多くは、ぼくをいわば初期のE君のような主張をしている者とみなして、C君のような視点からぼくを批判しようとするんだけどね。活字になって公刊されないような種類の批判は――数から言うとこっちのほうがずっと多いんだけど――むしろ逆で、ぼくが、D君やE君のような問題提起をしたはずなのに、時にはまるでC君やFさんのような立場に立っていると言って、そのことを嘆くんだよ。
学生E――嘆くの?
先生――そうだよ、嘆くんだよ。異口同音にね。
学生H――で、先生は本当はどっちに近いんですか。
先生――だから、どっちでもないんだよ。ぼくはただ単に哲学をしているんだから。ただ単に哲学をするってことは、ぼくにとってはすごく自然なことなんだけど、ほかの人にはどうもそうではないみたいなんだな。哲学は思想ではないというフレーズは、いまでは広く受け入れられていると思うけど、多くの人は、頭ではわかっても、どうも受け付けないみたいだね。どうしてなんだろうなあ。
学生F――私も、哲学は本来、それ自身の中に考えられるかぎりの可能な批判のすべてをあらかじめ内属した形で提示されるべきものだと思いますよ。そして、対立する主張のどれが自説であるかという問いは、哲学には妥当しないはずです。哲学における自分の見解というのは、問題の提示とそれをめぐる可能なかぎり他方向からの吟味検討それ自体であるべきだと思いますから。
先生――一般的にそう言えるかどうかはわからないけど、少なくともぼくはそうありたいね。
――P.171

▼想起したので改めて読み直してみた。素敵だと思う。最近少しわかるようになった。