世界は称賛に値する

日記を書きます

いままさにここにある、の強さ

▼思考を続けてみた。確かに『不幸な人』と『不幸な話』は、どちらにも同じ『不幸』がありながら、感情移入する度合いの差によって、はっきりと違うもののように感じられてしまっている、ように思える。つまり、味わっている『不幸』をどれくらいきちんと精密に想像しているか、によって、どこか違った感触を味わうことになってしまっている、わけである。が、だとしたら、なにがその『精密な想像』を生んでいるのだろうか。なんて考えてみたのだった。▼不幸な人にはなにがあるのか。不幸は話にはなにがないのか。つまり、なにが不幸に『人』を見させる動機になるのだろうか。あるいは、なにがあれば不幸を『精密に想像する』ことが可能になるのだろうか――逆に、なにがなければ『人』を想像することも『精密に想像する』こともなくなってしまうのだろうか。考える。▼考えて、いままさにここにある、ということが、もしかしたらそれなのではないかな、なんて思ったのだった。不幸な人の『不幸』は大抵『いままさにここにある』だろうし、不幸な話の『不幸』は大抵『いままさにここにはない』だろう、だから、いまここにある、ということの『強靭な衝撃』が、不幸に『人』を見させ、不幸を『精密に想像する』ことの動機になったりもするんじゃないか、なんて考えてみたのである。違和感はあまりない。