対義
気持ち・面持ちを対義語だと思って対比させるのおもしろいかなと思った。対義とか反対をちょっと鋭くひねって考え出してみるのって基本的におもしろい。それを題材にした遊びにもちょくちょく出くわすけど、たいてい、もっとやってほしいと思う。あるものの対極になにがあるかを訊くのがそのひとの観点を一番的確に知らせてくれるフシすらある。
気持ち・面持ちを対義語だと思って対比させるのおもしろいかなと思った。対義とか反対をちょっと鋭くひねって考え出してみるのって基本的におもしろい。それを題材にした遊びにもちょくちょく出くわすけど、たいてい、もっとやってほしいと思う。あるものの対極になにがあるかを訊くのがそのひとの観点を一番的確に知らせてくれるフシすらある。
「そんなの違法だ!」「それは犯罪だ!」と、さも鬼の首でも取ったかのように、オマエの行為は間違いだと、そして、いまそれを指摘している自分の判断と基準と手法は正しいものなのだと、言ってのける振る舞いを見たときに、正直、意味わからん、とは思う。
ぼくとしては、人間が作り上げたであろうもろもろを(ここでは"法"や"ルール"を)そこまで強固に信じられん、って感じだ。意味ないとかどうでもいいとか正しくないとか言いたいわけじゃ決してないけれど、しかし、絶対視や神聖視は、ぜんぜんできない。おのれの正当性の根拠にはならない。躊躇も遠慮もなく相手を責め立てるための下支えにもできない。
「犯罪」だから即アウト、「犯罪者」だから即サヨナラ、みたいな、検証なしの自動処理には、ちょっと乗っかれない。結果として、犯罪とか犯罪者とかとの距離感がよくわからん感じになっているところはたぶんある。あつかいがちょっと苦手だ。アウトにはしないため大歓迎ですってんじゃ意味わからないし、だからって、生理的に受け付けないよと脊髄反射でダメ判定するのも同じくらい意味わからない。
絶対じゃない。無謬じゃない。完璧じゃない。ケースバイケースもコンテキストもグラデーションもかかわってはくるんだろう。とはいえ、だからこそ、ちゃんと法やルールを守りましょう、そうすることで、どれだけ人が幸せになりうるか、世がうまく回るようになりうるか、しっかり考えていきましょう、っていうふうには、していきたい気はするのだった。そういうふうに事態を捉えられるようにはしておきたい。盲信と狂信の神様あつかいするんじゃなければ、祭り上げるのに異論はない。
物語を読み進めていくなか、「ファンタジーだと思っていた世界観が、突如、SF世界観に切り替わる」瞬間に、ときどき出くわす。基本的にはとても好きだなと思っている。けど、そこで、なにが「切り替わって」いるんだろう、とも思った。というか、切り替わったどのあたりを楽しんでいるのかがちょっと不思議だった。あんまりカンタンに説明できなそう。
「魔術や信心」が「科学や技術」に変転させられることにとにかく感激させられる、っていえばまあ事態としてはそうなのだけど、これってどういうことなの?とは思えてくる。未開だったものが未開じゃなくなるところがよいのか? 理屈のなかったところに理屈が見えてくるのが(理性側に話が寄りかかってくるのが)好きなのか?
と問うてみると、正直、しっくりこないところもある。なんというか、それが逆向きであっても、楽しめちゃう気がするからだ。「SFがファンタジーに切り替わる」んであっても、同じくらい、はしゃげそう。同じ種類の楽しさをそこに見出していそう。そう考えてみると、パラダイム、足場、土台、視座、それまで信じられていた前提が、とにかく、大きく切り替わってくれれば、それだけでいいのかもしれない。世界をぐるりと急旋回させてもらえたならそれでじゅうぶんなのかもしれない。
以前はほとんど稼働させられていなかったSNSも、一日一個、そして、「日記」と呼び、記載する、という形であつかうようにしてみたら、けっこう継続的に楽しめるようになった。
まず、「日記」と認知させるのは明確に効果的だった。数字が並んでいくのが性に合うんだと思う。そして、一日一個くらいが、ぼくの処理能力であつかえる範囲だったんだと思う。「ちょくちょく」とか「都度」は手に負えなかった。
これぜひ読んでほしい、と、強くオススメしたところで、読んでもらえるとは限らない。ひとにすすめるのはカンタンじゃない。むしろ、ヘンに押しつけがましくなって逆効果なことさえあった。敬遠されるのは最悪だなあとも思う。
そういう意味では、いくら推そうとしたところでどうせ推しきれない、究極的には「ひとりごと」から逃れようもない、インターネット上に置かれることば、っていうのは、よいものにも思える。言うだけ言える、書くだけ書ける、いつか誰かに届くかもしれないとレターボトル的に放流しておける、こういった場で「オススメ」しとけるのは悪くない。
と考えると、たとえば、今年おもしろかったもの、くらいのものよりも、ほんとうにずっと好きだったもの、どうか読んでくれと願うもの、みたいな話を、もっと聞きたい気はする。そして、自分もまた、たまに置いておけばよいんだよなと思う。最近あんまり書いてない気はする。諦観の匂いがただよう。でも、内心でずっと推し続けている作家はあいかわらずいるし、薦められるものなら薦めたいという気持ちも強い。置くだけ置いちゃえばよいんじゃないかな。そして置くだけ置いてほしい。
遠慮と自衛のためにことばを濁していることは少なくない。というか、けっこう意識的に線引きしちゃっているとは思う。好きも嫌いも明確にしない(特に「嫌い」は明言しない)。特定の名前は明示せず、誰の話であるかさえ、あきらかにはしない。こっそりと、しらじらしい、あいまいな日記を、書いてはいる。直接指し示すことはない。
こういったスタンスが染みついちゃっているところがあるのは間違いないので、むしろ、素直に指さして話すトレーニングだってしてみればよいんじゃないかなとは思った。軽んじたり侮ったり決めつけたりしなければ、いちおう、やれないことはないようにも思える。そういう執筆も試してみたらいい。いろいろやってみる。