世界は称賛に値する

日記を書きます

2026年03月29日(日)稀に当たりが出るのでとにかくガチャを回す

当たり前提では動かない

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、といったテンションで、まずは垂れ流すように、思いつきをガシガシ書き出していったあと、今度はすぐにチェック作業を開始して、いらんものを、つぎつぎ弾いていく。見直しを進めながら、ためらいなくどんどん捨てていく。そうして、わずかに残るかがやきやきらめきだけをなんとか残す。峻別する。濾過する。純化させる。こういった動作を身体に慣れさせていく必要があるんだろうとは常々思いつつも、むずかしい。難しい。どうしてもためらう。あるいは、なまける。

一発必中、一撃必殺、クリティカルな発言くらい、それなりに繰り出すくらいのことはできるだろうと、楽観し、過信し、そしてさらに背後では間違ったことを言ってしまうことを恐れながら、結果的に緩慢に動いていることが、多い。習慣づいてしまったとも思う。この手の所作を、悪癖ととらえるやり方があるはずじゃん、とは、まず思った。もちろんケースバイケースで、よいほうに働くことだってあるはずだけど、日常の基本的な姿勢をそのどちらかから選べるなら、そりゃ前者のほうがよい。なんにせよ仮説なんて出せるだけだ出したほうがきっとよい。

ひとりの人間から、どんな着眼点が、どんな発想が、どんなひらめきが、出てくるかなんて、わからない。あたりもはずれも予測できない。そしてたぶん、数で言えば、「はずれ」のほうが多いだろう。と考えたときに、「あたり」前提で動くのは、意味がわからんからなあ、とは思った。

2026年03月28日(土)軽いけど放棄方向ではない

気楽に動く

お子さまを連れ回しながら(連れ回されながら)、ちょこちょこと、いろんなところをおとずれた。たいへんではあったけど、まあなんとかなった。まあなんとかなるっしょ、というお気楽精神で、ふだんからすごしているほうだとは思うけど、そのぶん、社会的責任みたいなところの見積もりは相対的に軽い。国家も社会も、ものすごく尊重はしていない。そんなに人類や人生がご立派なものだと認めていない。とくにそれを撤回したいような気持ちはないのだけど——間違っていると思うところはないのだけど、そうじゃないひとたちがたくさん集った場で、飄々としていると、迷惑かけたいわけじゃないんだよな、と思わないわけでもない。みんなが率先して責任をとってくれているなかで逃げに回りたいわけじゃないんだよなとは思う。

2026年03月27日(金)理屈みたいなものがただの幻想の場合

世界とつながっていない可能性

論理とか科学とか実証とかいったものが当然のようにあると思っているけれど、ぜんぶ気のせいというか、そういう感覚があるというだけのまぼろしの可能性はある。ただただ人類は、自分らに性に合う、もっともらしいことを言っているだけで、実際は、人類の為すなにもかもが、めちゃくちゃな可能性はある。自分たちから見たときに「整合性がとれている」と感じられるルールを勝手に設定して、そのなかで、キレイっぽくなにかを並べているだけ。世界の根本的な整合性みたいなものとまったくつながっていない可能性。

2026年03月26日(木)みんなが日記を書く場合

一億総日記時代

一億総活躍時代とか一億総メディア時代とか、そういう「一億総○○時代(社会)」という言い回しがそういえばあった。最近は聞かなくなった気もする。一億が時代遅れになってきている可能性はある。

昨今の日記ブームのあおりをうけて、「一億総日記時代」って言い回しも思いついた。まあ、そこまで日記や言葉と人類全体に親和性があるとも思わないが、たとえば、ほんとうに「一億総日記時代」がおとずれて、だれもが自然と日記を書くようになったとして、そんな未来を想像してみたら、そんなの読み切れるわけないじゃん、って思ってしまった。昨今の日記本ブームのあおりをうけて、そんなには売れないよと思ってしまった。

けど、別に読み切られなきゃいけないわけじゃないだろ、って思い直した。誰にも読まれなくたって日記は存在してよいはず(存在理由があるはず)だし、それとはまた別に、読みきれないことばが無数に書かれている社会だって、別に悪ではない。需要を超えたことばは存在しちゃいけないなんてルールはない。

ほかのひとに読まれるでもなく、本人が読み返すかどうかさえ場合によるような、どんどんと書き捨てられていく毎日の言葉が世界にあふれたら、おもしろそう、とは思う。

2026年03月25日(水)理屈に腐心

理屈遊び

SFとミステリってどちらも理屈遊びだよなあとは思う。どっちもことばの「理屈面」を駆使しながら遊ぶ場だ。結果として、ことばの「論理」に重心が置かれ、細心の注意が払われる。たぶんそういう理屈空間の匂いが好きなんだとは思う。

いずれもたしかに理屈遊びだとはいえ、「理屈」というツールを使って"どういうふうに遊ぶか"は、けっこう異なる。理屈を通して、それらしいものを作り上げ、読み手に向けて、騙すようにして、素敵な世界・事件を提示してみせる、みたいな構造は似ているけれど。最終形となる理屈に隙を作るか(隙があってよいタイプの理屈で遊ぶか、できるだけ隙のないタイプの理屈で遊ぶか)の違いという気もした。イリュージョンとシミュレーターを無理やり似た要素でくくっちゃってる気もしなくはないが。

2026年03月24日(火)精緻な検証だけで生きていけない

ふだんづかいの印象論

検証を重ねた(自分なりに)丁寧な理解ばかりを使って過ごすのは無理がありそう。さすがに負荷が大きい。結果として、ふだんは、表層的な印象論をたくさん使いながら生活する羽目にはなる。そういう負荷の低いものが、一般論や常識、つまり、"齟齬がなさそうなもの"として、流通していくことにもなるんだろう。逆にいうと、まじめに整えられた認知は、「ヘン」に接近しやすい。そんなのふつうじゃないよというツッコミにさらされやすい。

誰かがまじめに語った真剣な世界観が、かんたんに茶化されてしまう光景を、けっこうよく見る。そしてけっこう好きじゃない。そういうのってつまりこういう構造によるものなのかな、と、整理的に考えていた。あんまりしないで済むよう、問題点を整理しておきたかった。

まじめな世界観は「ヘン」なものだと判定されやすい。偏見をとりさって素直に見つめれば大勢が見つけられるような入念な理解でさえ、ふだんはなきものにされていたりする。そんな文脈のうえで自然に過ごしているひとの前に、自分なりの検証を重ねた固くて分厚い理屈を提出したら、そりゃ嗤われるだろう。そういう色眼鏡が来るのは止められないなとはまず思った。