年末年始もあなどれない
非日常と日常、ハレとケ、記念日となんでもない日。そういった"切り分け"のまなざしで世界を眺めたほうがよいのか、特別な日や大切な日なんてものはぜんぶ自分で決めようぜ、と言えるくらいの自由さを持っていたほうがよいのか、そもそもすべてをフラットな目で眺めて分け隔てなく大事にしておけばよいのかは、あいまいだ。
記念日や誕生日ばっかり優遇するんではなく、日ごろから、ただただ相手を大切にしていればよいのだ、と言われれば、まあそうかなとは思う。大切な日なんて自分で決めちゃえよと言われたら、それもまあそうかな、って思う。誕生日やクリスマスというルールに従ってプレゼントを贈ればよいのか、二人にとっての大切な日にちゃんとプレゼントを贈ればよいのか、ふだんの生活の中でも贈りたいときにプレゼントを贈るような振る舞いを選んでおくべきなのか、はたまた、別にプレゼントなんてなくても丁寧に感謝や御礼が伝わるようにしておくべきなのか、塩梅は謎だ。
といった意味で、クリスマス・年末年始・正月といったものを、「大ごと」だと捉えて、プレゼントを贈ったり、はしゃいだり、伝統的な飾りつけなりを用意しておいたりしたほうがよいのか、そんなもん嫌なら好きなように無視しちゃえばよいのか、じゃっかん迷うところは(あいかわらず)あった。「家族や子どもがいるとそうもいかない」ってところについても、どう捉えたもんかな~、と思うところはあった。
昔は、軽視も無視もしたきゃすればよい、くらいの、朴訥とした考えを有していた。が、最近は、そんな浅はかな話でもなさそうだぞ、って感じるようになってきた。わかりやすい区切りや、儀礼・祭事、風習、コミュニティ、共通認識と相互確認などが、人類に与える効果も理解した結果、「人類が勝手に決めてきたなんかに(同意もしてないのに)左右されたくない」なんて、安易には言えなくなった。
クリスマスや正月があるのにも、年始に抱負を掲げるのにも、お年玉や年賀状といった伝統や風習にも、一定の意味がある。不要だとカンタンに断定できるほどの事態ではない。「明けましておめでとう」という文章が誰かによって書かれているのを見たときに、そこに、よい雰囲気を感じているのは、間違いない。ベスト作品やベストバイみたいな"ふりかえり"も楽しませていただいている。にもかかわらず、あなどるのは、違うじゃん、とはなった。