世界は称賛に値する

日記を書きます

2025年1月1日(水)どちらかといえばハレ

年末年始もあなどれない

非日常と日常、ハレとケ、記念日となんでもない日。そういった"切り分け"のまなざしで世界を眺めたほうがよいのか、特別な日や大切な日なんてものはぜんぶ自分で決めようぜ、と言えるくらいの自由さを持っていたほうがよいのか、そもそもすべてをフラットな目で眺めて分け隔てなく大事にしておけばよいのかは、あいまいだ。

記念日や誕生日ばっかり優遇するんではなく、日ごろから、ただただ相手を大切にしていればよいのだ、と言われれば、まあそうかなとは思う。大切な日なんて自分で決めちゃえよと言われたら、それもまあそうかな、って思う。誕生日やクリスマスというルールに従ってプレゼントを贈ればよいのか、二人にとっての大切な日にちゃんとプレゼントを贈ればよいのか、ふだんの生活の中でも贈りたいときにプレゼントを贈るような振る舞いを選んでおくべきなのか、はたまた、別にプレゼントなんてなくても丁寧に感謝や御礼が伝わるようにしておくべきなのか、塩梅は謎だ。

といった意味で、クリスマス・年末年始・正月といったものを、「大ごと」だと捉えて、プレゼントを贈ったり、はしゃいだり、伝統的な飾りつけなりを用意しておいたりしたほうがよいのか、そんなもん嫌なら好きなように無視しちゃえばよいのか、じゃっかん迷うところは(あいかわらず)あった。「家族や子どもがいるとそうもいかない」ってところについても、どう捉えたもんかな~、と思うところはあった。

昔は、軽視も無視もしたきゃすればよい、くらいの、朴訥とした考えを有していた。が、最近は、そんな浅はかな話でもなさそうだぞ、って感じるようになってきた。わかりやすい区切りや、儀礼・祭事、風習、コミュニティ、共通認識と相互確認などが、人類に与える効果も理解した結果、「人類が勝手に決めてきたなんかに(同意もしてないのに)左右されたくない」なんて、安易には言えなくなった。

クリスマスや正月があるのにも、年始に抱負を掲げるのにも、お年玉や年賀状といった伝統や風習にも、一定の意味がある。不要だとカンタンに断定できるほどの事態ではない。「明けましておめでとう」という文章が誰かによって書かれているのを見たときに、そこに、よい雰囲気を感じているのは、間違いない。ベスト作品やベストバイみたいな"ふりかえり"も楽しませていただいている。にもかかわらず、あなどるのは、違うじゃん、とはなった。

2024年12月31日(火)帰りしなに、飲み屋に寄った

飲みながら記憶力の話はした

昨夜は遊びに行ったあと、帰りしなに、チェーン店の飲み屋に寄って、深夜くらいまでお酒を飲んだ。翌日あつかいとして日記に書いておこう。ざっくばらんな話ができて、楽しい場だった。

記憶力の話をした。驚異的な記憶力とまでは言わないけれど(映像記憶と言われるような、鮮明な記憶力を備えているひともいるようなので)、明らかに自分より憶えている範囲が広いひとには、出くわすこともあった。こういうひとと記憶力のよさで争ったところで意味なんてないんだろう、と思えるようにもなった。それに呼応して、「自分はあんまり記憶力がよいってわけでもないんだな~」って感じたりする。

期待や過信もこめて、記憶力、決して悪くないんじゃないか、って思いたがっていた時期もなくはないのだけど、それを否定するエピソードも重なってきたため、そういった認識にはなった。「具体的な出来事を抽象的な構造に変換し記憶する」「感覚的なこと感情的なことばっかり記憶してしまう」みたいな、記憶しかたの違いもあるはずなので、具体的な記憶があまり頭の中に残っていない、という事態に対し、一概に「記憶力のよしあし」を問えるわけでもないようだけど、とはいえ、「これってどう決まったっけ」「前回はどうやっていたっけ」「あのときなんて言ってたっけ」と、咄嗟に質問され、答えられる・答えられない、といった具体例としての違いがあると、やっぱり、「記憶力、別に、よいわけじゃないみたいだな~」と思わされるところはある。あと、記憶力に関しては、「興味のあるなしによって、記憶されやすさが変わる」要素もあるようなので、本質的な「記憶力のよしあし」問題と言えるかどうか、ほんとうにあやしくはある。が、まあ、気にはなる。質問に答えられなかったらダメージもちょっとは喰らう。

機嫌よくやれてはいる

「一般的な記憶力」がどのくらいのレベルなのか、実際、よくわからない。なにを、どれくらい憶えていれば、問題ないのかは謎だ。

とりあえず、ぼくに関していうと、嫌なことはすっかり忘れて機嫌よく過ごしている、といった事例が、まあまあ目立つ。キツい、ツラい、みたいな事が降りかかったとしても、数日くらいで、振り返らなくなっている気がしている(この習性の壁を乗りこえてきたため、昨今の、「風土や上司がいやだ」に衝撃を受けた形でもあった)。なんだったっけ?って、ケロリとした雰囲気になっている。

そんな事例を踏まえると、記憶力があんまりよくなく(あるいは憶えておく気がなく)、そのおかげで、意外な恩恵にあずかれていたりするのかな、って考えたりもする。「嫌なことはすぐ忘れる」という能力が、「記憶力の悪さ」と紐付くのかどうか、よくわからないところもなくはないけれど……。嫌なことに関してはただただ振り返らないようにしているのだ、という単なる行動特性や意志の話なのかもしれないし。

2024年12月30日(月)忘年会と回覧板

忘年会

恒例の忘年会の日。学生時代からの友人らとの歓談の場だった。時節的に「忘年会」と呼んではいるものの、レンタル会議室で、駄弁りながらボドゲするくらいの、特筆するほどでもない内容だ。ボードゲームにドハマりしていた頃は、ボドゲで遊びたい!という欲を発散させてもらう場でもあったのだけど、ここ数年は、気兼ねなく話せる時間も貴重になりつつあって、「話したい・聴きたい」に、軸足が移り始めている。

開催場所となる新宿駅に向かうさなかで聴いていたPodcastで、「今年の三大ニュース」が採りあげられていて、この三大ニュースという切り口、ちょうどよさそうだな、って思った。到着した順に、参加者の皆様の三大ニュース(作品でもベストバイでもなんでもいいよ)を質問させてもらった。「いきなりそんなこと聞かれても」「事前に言っといてくれ」という指摘もなくはなかったが、話題自体は、ほどほどうまく機能してくれたんじゃないかと思う。多少は循環してくれた。回答も興味深かった。聞いてみてよかった。

ぽこぴーの回覧板

例年よりは忘年会を早めに抜けて、「ぽこぴーの回覧板」に行ってきた。VTuberの、ぽんぽこさん・ピーナッツくんのライブイベントだ。おふたりの動画は長らく見続けている。企画がおもしろい、真面目だし妙な親近感も感じられて楽しい、というのが、理由としてはわかりやすいところになると思うけど、VTuberやYouTuberという枠組みの中で、ちょっと奇抜で、新しいことに、謎の誠実さをもって挑み続けている、といった凄みみたいなものがあることも、見続けたくなっている大きな要因だと思う。24時間企画も、着ぐるみやパペットの導入も、「意味わからん」「どういう発想だ」と思わされながら、だいぶ楽しませてもらっている。ツアー的なイベントに「回覧板」と名づけるセンスもかなり好きかな。ピーナッツくんの音楽界での評価の高まりかたもおもしろい。

駄目元で応募してみた今回のチケット抽選だったが、当選したのは素直に嬉しかった。楽しみにしていた。楽曲が生で聴けたのはよかった。特に(直前の発表だった)刀ピー2024が聴けたのは嬉しい驚きだった(2021や2023も聴いてみたかったが)。最後、駆け足になってはいたものの、見送りがあったのも、地味に、ありがたい気持ちになった。終わったあとは、飲み屋で飲み食いして帰路についた。

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2024年12月29日(日)予定と予定のあいだ

予定の変更

2024年の年末の予定は二つ。そのうちのひとつ、28日(昨日)のボドゲ会は、参加者一名のコロナ感染によって、延期になった。きわめて残念だった。次の機会を早めに設けたい。30日(明日)には、馴染みの友人らとの忘年会がある。現時点のぼくから見たら、昨日と明日という、直近の、ちょっとした予定にかかわる軽いメモ書きに過ぎない記述だけれど、数年後に読み返したら、きっと、ほとんど記憶にないか、あるいは、ちゃんと懐かしいくらいの貴重な記憶になってくれているんじゃないかと思う。ちょっとした予定の変更ぐらいが、むしろ、書くに値する話なのかもしれない。そんなふうに思っておきたいところもある。

非具体的

具体的に書かず、つまり"ぼやかす"ことを、「抽象的に書く」と表現しようとしてしまい、「非具体的なことが、イコール、抽象的であることを意味するわけでもないんじゃないの?」って気づいた。特定を避けるために、主語を削ったり、目的語を削ったり、固有名詞を削ったり、「いろいろ」「なんやかんや」「みたいなことが」とか書いたりできるわけだけど、この、ぼやかされた事象が、「抽象的」なのかと言われると、そうではない気もする。

一気に書ける班だけ

書き切ってみせたい。せめて、ひと区切りはつけたい。そういった精神状態のもと、ここの日記を書いている。一気に書けるものだけ書いている。ちょこちょこと思索の断片を書き足していって、最終的に、大きな記事を書き上げる、ということが、まったくできていない。年末から来年にかけては、そういう訓練もしていきたい、とは思った。来年の目標に掲げてもよい。

2024年12月28日(土)警戒すべき枠組みの中の真っ当な玉

ビジネス書を褒める

焚きつけるだけの言葉でただ熱量を空回りさせてくるビジネス書も、経験上、少なくない。ほかのジャンルの書物と比べたら、そういった割合が多いという面はあると思う。とはいえ、テクニック、セオリー、メソッド、ナレッジ、スキーマ、と呼ばれるような物事を、適度に指南していくことを目指した、学術書や解説書めいたビジネス書もまた、たくさんある。(前者ような気持ち上のものを、無駄なもの、はずれの本、とするなら)はずればかりでもない。

ビジネス書って、「甘い言葉や都合のよい解釈ばかりを並べてみせるタイプの自己啓発」との相性が悪くないから(ツラい事象も多いため、元気づけてくれるだけで、ありがたいとか、あるんだと思う)、そのせいで、「このビジネス書がよかったよ~」っていう発言が、自己啓発的なことばを耳にして舞い上がっているだけなんじゃないの?といったほうに、目が引き寄せられ、ヘンなふうに受けとめられてしまう問題があるな、とも感じる。固定観念の目にさらされやすい。冷静な褒め言葉であっても、情動的なものなんじゃないかと、疑われやすい。

みたいなことを思うことがあって、ビジネス書って褒めるのちょっと難しいな~、って考える場面も多かったのだけど、少し前に、「手法や手続きをしっかり伝えようとしている、学問や分析を土台にした、真面目に作られたビジネス関連書のリスト」に対しても、「自己啓発ばっかりじゃん」「読む価値なし」、と(理由の開示もなく)断じられている場面があって、ここ、あんまり気にしてもしょうがないのかな、と思わせられることがあった。誠実なやつと軽薄なやつが区別なく大枠でくくられて一緒くたにされちゃってるなら最初から気にしなくていよいくらいかも、って思った。

玉もあるんすよ

玉石混淆だといえるような状況の中、ヘンに「石」が目立ってしまっているため、「意外と"玉"もあるんすよ」と言ってまわりながら、よい出逢いを大切にし、ときには人に伝えられたら、うれしい、なんてふうに考えてはいたのだけど、たとえ真っ当に「玉」を並べてみせたところで、遠巻きに「石ばっかりじゃん、くだらん」と言われるのであれば、こまかい注意書きなんて、そもそも書いておいたところで意味なんかないのかもしれないな、と思ったのだった。そんな注意書きなんてなくても、経験者なら、理解し是正してくれているような、単なる荒っぽい誤解な気もするし。

2024年12月27日(金)実家チェック

水もれチェック

実家をやや放置気味な近況だ。いくつかの理由が重なって、手のつけにくいシチュエーションになっている。さっさと始末をつけたほうが本来は損も少ない。解決のために動いたほうがよいはず、とは思いつつ、後回しにしてしまっていた。そんな中、「水漏れしている可能性あり」との連絡を受けて、だいぶおののいた。今日の仕事を終えたあと(今年最後の勤務のあと)、様子を見に行くことに決めた。

遠出の雰囲気はあって、妙に楽しくはあった。結論、被害もなかった。よかった。ただ、いずれにしても、工事は必要になるようだ。日時や立ち会いなど、詳細を決める必要がある。まあまあめんどうだが、最悪のケースを踏まえたら、むしろ最善に近い状況ではあったので、特段、文句はない。片づけなり手続きなり動いていかないと不味そうだ、とあらためて感じさせられる一件ではあった。ずっと移動させたいと思っていたディスプレイがあったので、ちょうどよい、と一念発起し、回収してきた。夜半にえっちらおっちら運んだ。

積ん読・積みボードゲーム

実家では本棚とボードゲーム棚を放置している。軽く整理もしてきた。が、ほんとうにおもしろそうなものばかり並んでいて、ここもまた、戦慄させられる点だった。今後、本格的に整理するとなったときに、これらを棄てたりできるんだろうか、と不安になった。本棚は、電子版で買ったりすればいいじゃん、っていう理由をつけて(自分を)説得すれば、まあ、納得してくれそうな気はする。ほどよい整理整頓の未来は見える。が、ボードゲームがキツい。業界的に一回手放すと入手難度が跳ね上がる趣味だというところがまずきびしい。だからってぜんぶ残すのは不可能に近いしな~。いつ遊べるのかわからないような品も無数にある。ひとりで遊べるわけではないというのも積み作品の消化という意味では難易度が高い。難題だ。

ディスプレイとともに以下の書籍、ボードゲームを救出してきた。

書籍

ボードゲーム

bodoge.hoobby.net

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