世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年09月10日(火)座学は好きなほうだ

教育

もろもろ新たな知見の得られた日だった。基本的には立ち会いの立場で話を聞いた。直接の教育対象ではなかったが、それでも、いろいろと学べるところはあった。同種の解説が、のちのちの自分でも可能になるよう、噛み砕きながらメモをとっていくのは、たいへん楽しかった。好ましい一日だった。

経営やビジネスにかかわる一般論や理想論を聞いた。エピソードと教訓を現実に落としこんでいくための理屈も聞いた。このあたりのフィールドには、脆弱な理論も少なくない。表面的なロジックが小綺麗なだけのものあれば、サンプル数の少ない視野狭窄なセオリーもあるし、遡及的にはそう見えるだけの印象論が大手を振っていることも多数あるようである。玉石混淆だ。

もっともらしく見えていた理屈の足場が、あっさり崩される場面を見るたびに、疑念は増していった。警戒するようになった。とはいえ、そのぶん、ぜんぶがぜんぶがダメなものでもない、という事態への理解も深まっていったと思う。少なくとも、仮説や参考としてならいくらでも活かしようがあるな、ということには気づけた。そもそも、経営やビジネスが、「理論の正しさ」「正しい行動」にかまけるためのものでもない、ということも理解した。

2024年09月09日(月)昔の日記を移植します

Obsidianに昔の日記を

ブログの文章管理をObsidianというデジタルノートを使っておこなうようになった。以前は、縦書きで書きたかったのもあって、それが可能な専用テキストエディタばかり使っていたのだけれど、最近は、Obsidianでの横書きにも慣れてきた。縦書き・横書きがスイッチ可能になった。スタイル問わず振る舞えること自体は嬉しい。そして、ツールによって検索性が上がるのもありがたい。日付別にたどりやすくもなった。便利になったと思う。過去の日記もここに統合していきたい。手作業になるが少しずつ移していくつもりだ。振り返るだけ振り返ってみて、今日はまず、2002年1月1日の文章を移動させた。

 強気

二十年ほど前の日記を読み返したら、べらぼうに強気だった。けっこう「浅瀬」のほうにありそうな普通のことを(現状から振り返れば、かなり平凡っぽく見える見解を)を、だいぶ大仰に語ってみせていた。恥ずかしげもなかった。感心させられるくらいだった。が、ここでいう「浅瀬」「深遠」みたいなものは、結局、現在地点から見える景色の違いに過ぎないとも思う。いつだって「さらに奥」がありうるわけだから、「あの頃は間違っていた」「いまいるところが正しい(正しいところにたどり着いた」なんていくら語ってみせたところで、意味はないんだと思う。たとえばもし、あと百年、生きられたら、いまいる地点だって、「浅く」見えるんじゃななかろうか。まあ、もしかしたら人間が到達できる「浅さ・深さ」には限界があって、それなりのところまで達したら、あとはもう、浅いもんは浅いし深いところは深い、だけなのかもしれないけれど。

若さゆえの、ふてぶてしい感じ、偉ぶった感じ、賢しらな感じ、言い切ってみせる感じ、意気込みだけはある感じ、口先だけの感じ、とはいえ虚勢も虚栄心も垣間見える感じ、など、場面場面でのよしあしはあるにせよ、なんだかんだ、よいところでもあったんだろう、とは思えるところもあった。活かしえたシーンもあったと思う。

ただ、ここに、「若さゆえの」とか付けてしまう安直さや短慮も、なんとかしたほうがよいんじゃないの、とも(いま)思わされた。若さのせいでそういうものを露出させてしまっていた、といった判断は、たぶん甘々だ。油断がすごい。いまなら脱却できているぜ、と無自覚に感じている証左だし、なんかむしろ、都合のよい解釈に寄りかかりすぎていて怖くなる。願望によって、まなざしが歪められていることくらい、検証しといてよ、と思い直した。

2024年09月08日(日)咳だけが強まった

咳がほどほど長いあいだ続いている。流石にそろそろよくなっていくだろうと期待もしていたのだけど、むしろこの週末で悪化した気配があった。衝撃深めな咳が目立ち始めた。警戒して部屋の空気を入れ替えたりはした。詳しい因果関係は不明だ。睡眠不足の影響というのはありそうな気もしている。実際、夜更かしはしていた。免疫力が落ちていてもおかしくない。ともすれば頭もあんまり回っていない雰囲気だった。

文章の粗

おととい書いた文章の粗も酷くて、書き直す羽目になった。読んでいられなかった。軽快な文章が書けたぞと歓んでいたはずなのだけど、一晩たって読み直したら、スカスカだった。理路をたどり直せず、断裂に蹴躓かされる始末だった。文章の「軽さ」ってあつかいが難しい。けっこうよく誤認もさせられている。要点を維持しながら上手に隙間をくり抜いて、もろくすることなく軽量化できた、とか思っていても、屋台骨や竜骨といった一番大切なところを、実は削ってしまっていたりする。本質や核心めいたところに致命的な傷をあたえておきながら、それに気づけないことがある。

「重さ」のほうはそうでもない。重くする方向性のほうが易しい、あるいは、慣れているんだと思う。文章を推敲する場面でも、不足していた説明の隙間などを埋めるべく、文章を足していくほうが、ラクだ。部品をガツガツ追加してゴテゴテした形にしながらバランス調整していくほうがやりやすい。

「ここはなくしてもよいところだ」と、贅肉的な箇所をしっかり見極めて、一語・一文を熟練した仕草で削り落とし、それでも質を維持しながら、その「話」を軽くしてみせる、というような振る舞いにはまるで慣れていないのだった。少なくとも自然体や無意識ではできない。「削ろう」と決意して挑んだときにだけ、可能になる、くらいの印象かな。

2024年09月07日(土)概念の内側で乱反射

 内側でうごめかせる​

外側からは「ぱっとしない話題」「平凡なテーマ」に見えたとしても、その内側に、鋭角な感性を飛び込ませて、好き勝手に遊ばせていると、そのうち、いいかんじの「軌跡」が残ってくれる、みたいな印象はある。言語化の種みたいなものを投げこめば、反射を繰り返すうちに、いろいろな事柄がくっついて、意外と、真珠みたいに育ってくれる、というイメージかな。あるいは、たいていのものは独自性のある形状を持っているから、その中で、光を行ったり来たりさせているだけで、不思議な傷痕や残滓が残ってくれるイメージ。どんなものであれ、内側には、それくらいの空間がひろがっている、とは感じる。こういった手触りで書いていると、対象がなんであれ、おもしろく向き合える、というところはあると思う。

2024年09月06日(金)頭の中にレーンを作る

日記によるレーン

書籍を一冊読み切ったあと、そこで満足感を覚えられたのが「ある一文」だけだったとしても、意外と問題なかったりはする。この理屈に出会えただけでじゅうぶんだ、って思えていたりする。素敵な一文との出会いだけで憂いのない読後感が得られている場面は少なくない。

日記を書いているときにも同じようなことを思っていることがあるな、って思った。運よく「素敵な理屈」が指先から飛び出してくれて、「よし!」ってなっているケースだ。日記を書いていくうちに、不意に、にゅるっと、手元に、「素敵な一文」が落ちてきてくれるような幸運が、稀におとずれる。

言語化・言語変換で遊んでいるうちに、頭のなかに、「レーン」とか「ガードレール」とか呼べるような溝が、ちょっとずつ築かれていくイメージは、あったりする。自分の言葉が、自分の脳内に、自分だけの「線」や「道」を引いていってくれる。そして、そこをたどって、新たななにかが、手元までやってきてくれる。導いてくれる。

これまで気づくことができていなかった、しかし、意識はせずともどこかで感じてはいた「活き活きとした実感」に、ようやく、あらためて、向き合えるような感覚ではあると思う。言葉を積み上げ、配置し、調整して、その結果、出来上がった「稀少な通路」のおかげで、なんとか手が届くくらいの、か細くて独特な世界観、というか世界感があるなと思う。

言葉を連ねることで、世界に対する新たな角度・深度に、手が届くようになる。不思議な裏世界みたいなものの手触りが、一瞬だけ、指先をかすめてくれたりするだけ、だったりもするが。いずれにせよ、そのあたりをおもしろがって日記を書いているところはあるな、って思った。

まとまらなかった話

「ビジネス・経済」と「豊かさ(人文知的な認識の厚み?芸術?人間の可能性?)」の、噛み合わせかた(噛み合うのか?)、あたりの事象について考えていたのだけど、うまくまとめられなかった。思索メモも積み重ねたものの、発散していくばかりだった。こういう事態がときどきは起こる。整理すらままならずに終わった。

時間の無駄だったと脊髄反射的に感じてしまいそうになって、否定した。明らかに無駄じゃないよと思い直した。無駄だとか浪費だとか、そういったところに対しては、特に、安易に、思わないほうがよい。ヘンに見通しのよい落としどころを見つけ出せてしまった場合より、よほどよいはずである。ぐるぐると道に迷っているのも悪くはない。いままさに「道に迷っている」と自覚できているならなおさらだ(自覚がないと道を踏み外す危険性が高そうではあるので)。

混乱もよいものだ。というか、かかえきれずにはみ出すような、ほどよく暴れ狂うような、混乱じみた事柄こそが、生きる意味、生きるための糧、個性、人生観、などに、いずれはつながっていくんじゃないか、とは、すこしだけ思っているところがある。

イメージとしてはふたつあって、どうしようもなく巻きこまれてしまう運命の奔流のような、嵐みたいな「混乱」と、手のひらの乗せた、わけのわからないぐちゃぐちゃした塊(けれどなんか楽しそうな「混乱」)の、ふたつだ。混乱にも大物と小物があるというだけかもしれない。が、いずれにせよ、こういうものを、割り切るようにして、あっさり切り捨ててしまうのは、きっと、よくないんだろう、とは感じている。画一的でわかりやすい紋切り型に当てこまないほうが絶対によいとすら思っている。

2024年09月05日(木)3年でどれくらい習熟するのか

 数年前の報告書の出来が悪かった

数年前の仕事を振り返ってみたら、記憶の中のものより悪い出来栄えだった。なんとなくそんな気はしていた。だからこそ振り返らないようにしていたところもおそらくある。類似した業務をおこなう予定があったので、「あの頃よりはよいものを目指したいものだ」と思い立ち、意を決して読み返してみた。が、理解・報告の粒度がなかなかに粗かった。もうちょっと、いらないところを削ぎ落とし、順番を入れ替え、同じ話題を取りまとめるような処理が、できたんじゃないか、と反省させられた。

近々おこなう類似の業務について考えていた。数年前に提出した報告書よりは、たぶん、よいものが作れるんじゃないかとは思う。時間がすぎたせいか、鍛錬が進んだのか、改善すべきところや違和感のもとが、多少は見定められるようになった。客観性は持てた。が、だからといって、次は満足いくレベルまで引き延ばせるぜ、とは言い切れない。というか、不安だ。できなかったら嫌だなと、どうしても想像してしまう。挑戦してみて、同じような結果に終わってしまったときの、不出来感・未成長感を、率直に受け止められるか、わからない。

ここ数年、それなりに頑張ろうと思っていたのは間違いなくて、けれど、手抜きしようとかサボろうとか、これくらいでよいだろうといった精神だってなくはなく、それが、いずれの「結果」に振れるかで、遡及的に確定させられてしまうであろうことが、怖くてしかたない、って言えたりするかな。そして、そんなクリティカルな一撃に耐えられるかが、わからない。さまざまな要素が重ね合わせられていたはずの、混色の「過程」が、「結果」によって、一発で、一色に塗り替えられてしまうのって。けっこう暴力的だ。防御が間に合うか心配になる。

成功譚も運不運パターン

これならうまくやれる。このやりかたなら成功する。こういう工夫が適切だ。これがコツだよ。といった判断は、ほぼすべて、運・不運の問題に過ぎない、といった言説もあるみたいである。運・不運というか、刹那的なデコボコというか、いってしまえば、近視眼的にはそう見えるだけ、って感じだ。成功法則なんておしなべて気分の問題に過ぎない、とまでいってしまうと過言になるにせよ、成功法則はぜんぶ「一時的で」「閉鎖的な」よさに過ぎない、とか言えるとところはたぶんある。それが、突きつめれば、運・不運として見做せる理由のひとつなんだとも思う。

成功や成長も、マクロな視点で見れば、ささやかな差に過ぎず、特筆に値しない。ひとりの人間からの目線でみれば、「なんかすごそう」「ちゃんとできてそう」「うまくいってそう」だったとしても、あくまでそれは、地球環境全体において「100円玉ひろった」レベルというか。現代という一時代的にはそう見えても人類史視点でみたらちゃんちゃらおかしいというか。ぼくが仕事で「うまくいった」「うまくできなかった」と一喜一憂していても、実際のところ、どうということもないのではないか?といった視点について、あらためて考えていたしだいであった。

たとえば、この前おこなったヒアリング業務での、質問事項の良し悪しや話の運びかたの上手い下手によって、なにがどれくらい変わりうるんだ、とは、問われてみればたしかに感じる。なんの影響もないとはさすがに思わない。が、これよりもっと「前」の段階にある、深く長く大きな影響をもたらす因子(仕組みや構造)のもとでなら、たった一回のヒアリングの効果がどうであったにせよ、結果として"よい"状態を残せてしまうような、堅固な構造が、構築できたりするんじゃなかろうか、って感じてしまったりする。そういう、巨視的で抜本的な問題点がもしも放置されているなら、まずそこに目を向けてみてもよい気はする。せめて、「前」のほうにそういう問題があることは気づいておいたほうがよい気もする。

別に責任の転嫁や放棄をしたいわけではない。引き受けられる範囲は引き受けたい。が、より「前」のほうで、失敗感ばっかり呼び覚ますファクターが固定されてしまっているのなら、その俎上で一喜一憂していても、しかたないんじゃないか、とは思ったのだった。そして、そういった事実があるのなら、そのことには、やっぱり気づいておいたほうがよい。「失敗っぽく見える結果」が発生しやすい空間の中で、頑張って突撃し、失敗したー、と、ひとりで、壁に跳ね返されてダメージを喰らっていても、時間の無駄である。精神力も体力も削られるが、浪費だろう。責任感で「ひとりずもう」に疑いの目を向けられなくなるような事態は避けたい。