世界は称賛に値する

日記を書きます

意志強弱の9月24日日曜日

強弱を削る

最近「かなり」「とても」「非常に」「極めて」「あんまり」「やや」「ちょっと」といった"強弱にかかわる副詞"の乱用を控えている。なにがなんでもすべて、強弱まで、精密に描いたほうがよいということでもないみたいだ、と感じるようになった結果だ。それぞれを見比べてみて、ここでしっかりとこの強弱を伝えたところで、たぶん、"読み手が受け取ってくれるであろう意味合い"は変わらず、それどころかむしろ、削ることによって読みやすさが増して、そもそもとなる"意味合いを受け取ってくれる確率"を高められるんじゃないか、と推察するようになった結果でもある。

「少し」と書いておかないと真っ直ぐそう思ってしまうことになってしまうじゃん、「強く」と書いておかないとほとばしる勢いを感じさせられないじゃん、と思える場面はもちろんある。実際にそう思えたときには、ちゃんと、そういった言葉を置くようにしている。リズム、見た目、手癖、で置いているときだけ差し控えている。まあその中でいうなら「リズム」を優先することは少しあるけれど。といった前文のように、「少しはある」という「強弱を伝える」ところに文章の目的があるときにも、当然、置くようにしているけれど。

心を見る粒度(と、ことばの粒度)

おのれの胸のうちを見つめるときの粒度は細かいほうがよい。だから、ここで省略すると言っている”強弱”についても、できれば削らずに、繊細な言葉にしておいたほうがよいのではないか、という問いも思い浮かぶ。言葉にすることで見つめるところにようやく辿りつけるということもあるし。

完全に"ひとに読ませる"ために書かれた文章なら読み手側に重心をかけるのもわかるが、しかし、ここで書いている日記は、公開してはいるけど"ひとに読ませる"ためのものと言い切ってよいかは微妙な文章だ。日記である。それなら、読みづらかろうと(逆に書き捨てるくらいの勢いで)ただただ細かく認識していく。余計な、無駄な、分析に思えたところにだって突っこんでいく。といったやりかたもあってよい。ここはまあ難しいところだ。正直、気分とノリと勢いの問題だと感じる。定期的に調整する案件としておく。

補助動詞も削る

似たところだと、「した」⇒「してしまった」「してみた」「してみせた」「してあげた」といった、ニュアンスを加える補助動詞の乱用も控えている。そのニュアンスがノイズになる可能性、そのニュアンスが読みづらさにつながり読まれなくなる可能性、を踏まえ、取捨選択しているつもりだ。少なくとも選択したいとは思っている。

世界目処の9月23日土曜日

世界

『さよならの言い方なんて知らない』の8巻を少し前に読んで、「生きる意味」に向けた問いかけ(なぜ生きるのか・なんのために生きるのか)に、安直な裁定を下してしまっているの、ほんとうによくない気がするなあ、と反省したが、ブギーポップシリーズ最新刊『ブギーポップは呪われる』を読んで、「世界」にも同じことをしているなと反省した。だいぶ"わかったつもり"になっている。こんなところだろうと軽々しく裁定を下し、距離すら置いてしまっている(しばらくは放置でよいかと思って油断している)。

いろいろなひとが、たとえば身近なひとが、あるいは権威のあるひとが、なにやら「世界」に対して言っていたことを間に受けて、完全無欠の唯一解は出せないにせよ、だいたいここからここまでの範囲に答えがあるんでしょう、といった目処はつけてしまっている。少なくとも"あたり"はつけられると感じていると思う。

ひとつの例として「セカイ系」に関する言論などが思い浮かんだ。セカイ系という題材を取りあげて、ここでは「世界」というものがこういうふうに考えられてるけれど〜、なんてふうに語られているのを見てきた。が、そういったときの「世界」もまた、しょせんは一案に過ぎないというか、その問題に沿うように形成されたひとつの例示的な定義に過ぎない。

さんざっぱら「世界」についての言論を耳にしてきたことで、その回数だけを頼りに、理解できている広さや深さを勝手に決めつけてしまっている。そういう言いかたもできる気はする。いっぱい聞いたので幅広く理解できている、たくさん聞いたから奥深く理解できている、と、謎の楽観を抱き、さらには悦に浸っていそうな気配すらある。

目処

目処ならつけられる、当たりならつけられる、といったところに、なんというか、謎の光明を見すぎなんじゃないのと思った。死ぬほど絡み合っていて、人間が理解しきれるかもわからないような問題に出くわしたときに、その難問に対し、"完全な回答"を返すことはたしかに無理そうだと思ったとしても、同じくらいの勢いで、答えはあっちのほうなんじゃないか、このあたりに答えがあるみたいだよ、と指さすくらいはできそうだと思っているなと気がついたのだった。そのくらいなら"できる"と感じてしまいそうだし、それが「できる」のであればつまり「この問題に対応できる」のだ、と認識も繋げてしまいそうである。

こういったところにある傲慢さというか、極めて安易な繋げかたとそれを許す甘えというか、期待にただ踊らされてしまっている楽観的な精神って、あやうそうだな、と思った次第であった。もちろんほんとうに「目処」とか「範囲」で答えるしかない問題だってあるんだとは思う。数学の問題で解として一定の範囲を示す「式」しか返せないような問いがあるのと同じで、それと似たような問題が、この具体的な世界にもあるんだろう。だからって、それを無邪気に転用して、答えがありそうなほうを"指さし"できていれば答えたことになるよ、と学習するのは違うじゃん、と思った今回であった。

「生きる意味」「世界」に安易な目を向けていることがこの文章の起点だったのだけど、むしろ、そういう目を向けることを可能にしている「目処」や「あたり」という概念が怖くなってきた。

ブギーポップは呪われる (電撃文庫)

暴飲暴食の9月22日金曜日

飲み会

金曜日。飲み会があった。飲み会の向かう途中で少し本屋に寄った。暇さえあれば本棚を眺めたい欲はあいかわらずあるな。昔よりは新書棚が好きだ。飲み会での愚痴混じりのトーク。ほどほどの心配を向けてくれている感じはあった。感謝したい。が、それを素直に受け止められない壁の手触りもあってそれも衝撃だった。自分に驚いた。職場に対する澱みと不信感が意外なくらい邪魔してきたというか。背後に変な打算がある可能性なんて限りなく低いのに妙に安心できなかった。こわいなと思った。そのうち落ち着いてきて終盤には解消されていたかとは思う。比較的嫌いじゃない空気のお店だったが同席者の評価はいまいちだったようだ。なんにせよ楽しかった。こちらのフォローのため愚痴大会みたいになってしまっている状態を今後は少し打破したい。生活や人生の話を丁寧に聞けるほうがぼくの趣味には合う。話題として好かれるかはまあ不明だけど。

実力不足の9月21日木曜日

仕事ができなくて怒る・怒られる、あるいは、褒める・褒められる、評価する・評価される、といったおこないの背景から読み取ることのできる「能力主義」が、やけに気になる日だった。昨日今日でこれに関連する話をふたつも聞いたためだろう。相乗効果で気になりっぷりがより増した。

bookcatalyst.substack.com

open.spotify.com

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「人間には能力がある」「能力には良し悪し、高い低いがある」「能力は測定できる」「成功する人間は能力が高く、失敗する人間は能力が低い、という連関がある」。こういった"能力"にまつわる常識はたしかにある。だがそれらが適切かはだいぶあやしい。嘘の余地がある。そして、そこにあるあやうさが検証されないままどんどん採用されてしまっているようにも思う。妥当性がないまま社会・文明・文化・時代・コミュニケーションの足場にさせられてしまっているというか。ぐらついたままの"能力"ありき事象が、いくらでも転がっている。

言うなれば、「能力」という概念には、もっとよい使い道があるんじゃないか?と思った形だ。現代における「能力」というものの扱いかたって下手くそなんじゃないかと感じた。いまぼくらが考えているような「能力」がすべてではない。もっとよい当てはめかたや伸ばしかたがありそうだ。その形状の多様さや有効さを活かせていないように思えた。

たとえばコンピューターゲームが図抜けてうまい(つまり"能力がある")ひとも、コンピューターゲームが開発される前の時代に生まれていたら、"能力がある"ことにはならなかっだろう。発揮されなかったというか、認識されなかっただろう。

という「人間が創造したもの」と「創造したものにかっちりとハマったことによって顕現させられた力」の"噛みあわせ"にフォーカスしていく切り口が、今回は新鮮だった。能力がある・ない、とか軽々しく言ってしまうが、そういうふうに"かっちりとハマる"環境があるかどうか(用意できるかどうか)が、能力のあるなしを決める、という考えかたのほうが適切に思えた。むしろこちらが能力の本質だと捉えてみるのはかなりよいと感じた。

環境を用意してからそこにハマるひとを探すのでもよいし、ひとを見つけてからそのひとにハマる環境を作るのでもよい。いずれにせよ、漠然と、「能力があるね」「能力がないね」なんでふうにのたまってるよりは適切だろう。ジグソーパズルの一ピースを見て、こいつに能力があるのかないのか?と問うていても意味ないよというのを連想した。

日常趨勢の9月20日水曜日

日記情勢

職場で見かける(喰らっている)"いらだち"には最近ほんとうに当惑させられている。いくらかのおびえすらあると思う。そんなふうに感じているため、題材にすることも増えているわけだが、正直、難問だ。スッキリ書けてはいない。見当違いの言葉が混じる。別に触れなくてもよいという説はある。おびえも弱気も陰口も自己正当化も混じるし、あえて触れない手はもちろんある。しかし、たしかに気落ちはしているし、ほどほどの割合を占めているのに触れないのもなんだし、実際触れてみるといくらか元気にもなるので、書いてみたいとは考えてしまう。そんなこんなな昨今の日記情勢なのであった。

前は明るいほうばかり見て日記を書くことが多かったが(それが習慣になっていてほとんど自覚もなかったが)、最近は、ネガティブな事柄についても、整理・発散・解消などの副産物も狙いつつ、書くことが増えた。それが良いとも悪いとも、好きとも嫌いとも、思わないが(好き勝手にしちゃってよいでしょ~という感じだ)、まあしかし、前は書いていなかったぶん、書くのもアリっぽいぞ、とは感じられるようになった。

思惑まぜこぜ

ぼくの思惑、相手の思惑(想定版)、相手の思惑(実際版)、そしてそのそれぞれを、思考・感覚・感情の三つに切り分ける。さらには、正義、道徳、責任といった倫理面での整理。対策として有効または無効の判定結果。それらぜんぶを織り交ぜて文章を書くのは難しい。というか、各レイヤーが勝手に混ざってきてしまうのが難しい。マジ混乱させてくる。なんて難しいんだとはあらためて思った。

このやりかたが最善か

「できなさに厳しい」「ミスに厳しい」「ルール違反に厳しい」「サボりに厳しい」「甘えに厳しい」と、人を裁いたり批難・叱責したりするにしても、いろいろである。どこを見ているかも違う。どこに引っかかるかも違う。なにが許せないかも違うだろう。そして、叱りかたや怒りかただっていろいろだ。褒めたほうがよいのか、凹ませたほうがよいのかも、相手による。場合にもよる。一律の答えはない。ただ、成果や成長にはつながったほうがよい、という指針はあってよいかな。このあたりの整理はやはり難しい。

相手のいらだち、表情や口調に対するおびえや嫌悪をきれいさっぱり取り払って、評価者が自分に向けている業務上のやりとり・やりかたをフラットに眺めたときに、これが最善のやりかたなんだろうか、と問うてみるなら、あらためて難しいとは感じられる。モチベーションもボルテージもテンションも空回りさせられているような心境ではあるので、嫌な光景に(ぼくからは)見えてしまうわけだけど、ほんとうにそうかはもちろんわからない。相手の思惑もわからない。なにか目的があるのかもしれないし、その場限りの感情的な振る舞いなのかもしれないし、ただの運頼みなのかもしれない。説明してくれたらもうちょっとマシとかも思うけれどほんとうに説明することが効果的なのかも不明だ。

いらだちが向けられていると感じ、そこを軸に反射した結果、反抗的・反撃的・反骨的な精神で話を聞くケースがやや増えている。しかしそれもどうなんだろう、と思って、昨日に続いて再考するように書いてみた形だ。

叱られた際、「このお叱りが最善のやりかたなんすかねえ」と頭を働かせながら耳を傾けるのは、冷静さを取り戻す手法であることもふくめ、悪くないやりかたかなとは思えた。

不快風情の9月19日火曜日

嫌な空気の余韻

連休が終わった。遠くまで足も延ばしたことだし、幅広めの気分転換にはなった。が、ままならない。週が明けても嫌な空気の余韻は残っていた。ビビりすぎて勝手に読み取っているだけなのでは?(枯れ尾花に幽霊を見るタイプの錯覚なんじゃないの?)と自問もした。おそらくそうではないと感じた。いらだち混じりの表情筋と声音はあいかわらず垣間見えた。錯覚の可能性に向かって、一度や二度、自問をはさんだくらいじゃ、誤認の可能性は消せないだろうけど、まあともかくだ。

結局のところこうして相手の内側に(勝手に)見て取っている「いらだち」を"怖れ"ている状態なんだろうと今日は再認識した。芯におびえがある、と両手をあてて意識した。解釈・反抗・防衛といった頭の動作でしのげてはいるものの、起点にあるのはおびえっぽいぞと感じた。「なぜおびえるのか」「なににおびえているのか」等を突き詰めていくと、いろいろな(自分側の過信や悲観もふくめた)問題が絡んでくるし、おびえとは異なる嫌悪や不評なども混じってくるため、区別はもっと難しくなる。複雑だ。

相手の振る舞いを見つめながら、これはいらだちによって駆動しているものなんだろうな、とあらためて捉えてみた次第だ。そして、そのために「もどかしさ」「不愉快」の解消がどうしても第一目的になってしまっているんじゃないかと想定も進めた。その結果、基準をはっきりさせない咎めの言葉が向けられがちになっているんじゃないかな~とも考えた。当てつけのようなどうとでも言えるような批難も、不愉快の解消(爽快感の獲得)のためのものなんだろうという理解である。当てつけってそういう効果が望める印象もある。

たしかに不備やミスはあったのだと思う。そういうなんらかの問題がきっかけにはあったんだろうが、しかし、対処のための意識がそちらを改善していくほうに向かっておらず、短期的な気持ちよさ獲得のためのものになっているのであれば、気にしてもしゃーないかも、と思えるようなモデルを構築してみたのであった。そういうモデルなら現状の様な環境、言葉、態度が横行していることも納得できる。違和感がなく、多少は気持ちも落ち着く。

理不尽が横行していて嫌いだぜ、というロジックを打ち立てることも可能だ。そういうふうに理屈での説明もできる。が(そして話を巻き戻すけれど)、根本はまあ「いらだち」に対する"おびえ"であった。それを今回、再認識した。というふうに、話もぐるぐるもする。こういう循環する脳内もちょっと面倒だし。

マシにはなった

嫌な感じの日々ではあるがとはいえ以前よりはマシにはなった。経験の蓄積によるものだ。同じようなことが繰り返された結果、流石に少しは流れや線引きに見通しがついてきた。対処できるようになってきた。ときどきこういう調子にはなるらしい、そして、このあたりの調子に乗っかっていっても別に解決には向かわないようだ、ということが身に染みてきた。

当初は、じぶんが悪かったせいでこんなことになったのかもしれない、という不安もかかえていたが、実際はそれほど関係なくて機嫌によるだけのようだ、というふうに理解が進んでいった(関係あることもある。だから難しいのだが)。たとえば同じような振る舞いでも叱責されたりされなかったりする。相手側の状態による。自分側の内容にはよらない。ならば気に病んでもしょうがない。不安をかかえすぎてミスが多発し始めるほうがむしろ逆効果・悪循環だ。そんなような頭の中にはなった。

以前は、ほんとうに申し訳ない……と落ちこむことも多々あったが、流石に現状の認識のもとでは、はあそうですか、という距離を置いた精神もときどきは発動するようになった。指摘したいことはわかるが指示も説明もそもそも曖昧だったしそんなふうに"わかる"前提で言ってくるのはおかしくない?どういう言葉選びなの?と感じる。要するに、しっかり聞いたうえで、なお、開き直れるケースも、出てきた。こうして書くとぜんぶがぜんぶみたいになるけどそうではない。明らかなミス、気づけたであろうミス、についてはむろん悔やんでいるし省みている。しかしそういった納得のいくミスの中にそうじゃないものも混ぜてくるから、厄介だ。混乱させられている。卑劣なんじゃないのとも思う。

開き直ってしまえばよい、というか、ミスはミスで当然よくないが過剰な叱責まで真正面から受け止める必要はない(しかし、どこからどこまでが過剰かを確定させる決め手はないため、ぼく側が線引きするとなると、当然、身勝手な判定基準は混じってしまう)、といったリアクションを今後、指針にしていくとなると、査定が下がっていく心配はある。少なくとも下降を避けにくくはなるだろう。コイツときどき叱責を勝手にスルーしやがる、と判断されたときに、でも過剰だからしょうがないね、と判断してくれる別軸が混じることは期待しづらいからだ。ここをどうしようかなと今は考えている。

いやまあ別にそれでもよいか~と思えるときもなくはない。場所を変えたほうがよいのではとも検討する。なんであれ波があるのだから下がりそうだからってあわてて動かないほうがよいのではとも思う。ジャンプのためにしゃがむ時期だってあってよい。誰だって常に高い評価を受け続けているわけではないんだろうし。現状最大の難点である不機嫌問題は結局のところ"運ゲー"なわけで、"運ゲー"頼りでやっていく案もなくはないのか、と諦観したりもする。