世界は称賛に値する

日記を書きます

2018-11-22

問いをぶつけてみるのが好き、解析するのが好き、整理整頓するのが好き、というような行動群に「繋がり」があると思ってしまっている雰囲気があるけど、ここの隙間、ほんとに繋がってると思ってしまっていいんかなー、って見つめ直していた。近しいと思うことすら疑ったほうがよいのではないかという思考もある(疑うのと楽しい)

常識なんて(常識だから)いつでも参照可能、という錯覚がありそう

▼▼当然とか常識とか普通とかいうようなものが、やっぱり、頭の中ではいつだってぐるぐると渦を巻いていて、いつでも参照可能、といった気持ちで生きているのだけど、一つの瞬間、一つの場面、で、脳の俎上に載せて運用できているのって、結局は一部だな、ということを強く思わされるような昨日と今日であった。▼▼いつだってこういうときはこうだろう、といった印象ばっかり使って生きていると、やはり、ミスる。ミスりそうで冷や冷やした数日であった。
▼▼なんとかなったー、傷つけないでいられたー、迷惑をかけなかったー、ギリギリうまく対処できたー、というような振り返りのもとで書いているところがあるねえ、と改めて思えてきたのだけれど、ほんとかなあ、って気分も出てきたな。

強い当たり前の日

▼▼正論や一般論のような「当たり前じゃん!!!」というような認識を、びっくりするくらい強く経験させられた日に、日記にどういうふうに書くかは、なんとなく迷う(当然である!というふうには流石に書きたくない雰囲気がある)(至極当然の出来事相手に至極当然の言葉選びをすることが妥当というわけではない、とは思っているし、信じているし、結局はそのあたりが好きだからだ)
▼▼ひとそれぞれに事情がある、とか、誰だってじぶんを正当化したい、とか、そのあたりのこと(そして、そんなの当たり前だよねえ、と思っていること)を、非常に強く、改めて喰らわされた日であった。

向きの種類

▼▼端的にただそこにあるだけ、というような、フラットで意味や価値から離れているようなものに対してであっても、面白さ、美しさ、気持ちよさ、好きさ、といったものをもとに、人は勝手に「方向性」を付与できる。向かうところ、向かうべきところ、向き、というようなものを、主観的に見つめられるな、って思った。
▼▼ある物事が最初から持つような目的みたいなものと、観測者が勝手に付与し始めるそういったものの、区別って、できているかなー、というかできるのかなー、というような疑問を持ったのだった。物事それぞれの体感の中に感じている向きを意識できていて種類なんかも区別できているんだろうか。
▼▼作られた目的や生まれた目的、使命や運命や役割、価値、意味、といったものが取り沙汰されているような時に、向き、が大切になってきてはいそうだ、とは思った。向きの有無、向きの強制、向きの決定権、向きの自覚、向きの自由、向きの錯覚、向きに対する信奉、といったあたりの認識と操作に興味を持っている雰囲気だ。

話のコネクタをふわっとさせる

▼▼抽象化して抽象的な話にすることで接続端子が増やせる印象はある。いろいろな具体例に繋げられるようになる印象だ。曖昧化、というような言葉も思いついた。ぼんやりし始める。ぼんやりしているおかげでいろいろなところに繋がりやすくなる、という形状である。まあ、コネクタの物量自体が増えるというよりは、同型のコネクタでありつつ「通せるデータの種類」が増える雰囲気かなあ、とも思う。ネットワークプロトコルの相互認証が雑になる、的なことかも、とも思った。


▼▼曖昧な話、ぼんやりした話、抽象的な話、によって、いろいろなところに繋がりやすい形状で、話を、出せる。結果、互いが「理解」した気持ちのまま話を進めていく、っていうことが構造的に実現しやすくなる。
▼▼なんていうような目的がある時ならば、このあたりのことを意識しつつ話を進めていくことは、非常によいことなんだろう、ということも合わせて思った。理解と不可解のコントロールやメリハリを活用したい時なんかだと、特にあつかいが重要そう。


▼▼(抽象化すると曖昧なまま話を進められるのスゴイ!といったことだけ書かれた遥か昔のメモが見つかったので、着想を奪って書いた)

言葉に鋭さなんてあるんすかね

▼▼鋭い一言、言葉の切れ味、というような言葉に対する信奉や心酔がすごくて、言葉に「すぱっ」としたイメージくっつけることにぜんぜん違和や疑問を覚えられなかったりするんだけど、言葉というものに軽々しく切断的な心象くっつけるの、ほんとうに妥当なのかなあ、って整理的に思った。言葉を受けて衝撃や感銘を受けてびっくりしたような時には、斬られた!的な体感を覚えている、気はするけれど、このあたりの感覚や精神のことを、もっと細かく見てみてもよいのでは、って思った。