時節の挨拶から

▼▼ここのところ急速に寒さが増してきている雰囲気で、ほんとうに突然寒くなってきたねえ、と、ツイッターやブログで沢山の人が言っている。じぶんの感覚を肯定してくれる人の言葉が、世界を見つめる眼差しの中に、一杯飛び込んでくる。これがよいよね、および、こういうのって駄目そう、という切り口二つに頭を接続しようとしたけど、どちらも合わないかなあ、という気分も出てきて、まあでも幸せっちゃ幸せな感覚かも、くらいのところで落ち着いた。これがよい、と違うの?と聞かれたら、なんか違う感じ、と答えられる。あと「肯定」って言葉は違うかも。じぶんの言葉が無意識のうちに自動的の補強される、というあたりなんだけど、これを「肯定」と呼ぶのは、違う気もする。
▼▼手紙の文面について調べると、時候の挨拶から始めましょう、というような説明が見つかる。手紙について正統性(正当性?)を謳いたがっている時には、まあそれに倣うだろう。逆らうほどの文句はない。時節の挨拶なんて無駄じゃん、と昔は少し思っていたけれど、というか今も思う人格がないわけではないけれど(無駄なところもある、とは思っている)、いや、意外とアリなのでは? そこのよさを君が判ってなかっただけなのでは? というようなことも、最近は思えるようになってきた。なってきている。経験を積むにつれて慣習のよさも判ってきた、っていうことでもあるし、同時に、季節を最初に頭に思い浮かべさせる、ということのよさも判ってきた。
▼▼ちなみに、時節や季節に関わる言葉が肉感的に思い起こさせる感覚、いうものにスポットライトを当てられるようになったのは、俳句、というものに触れることができたからだと思う。少し前に俳句にまつわる試行錯誤を重ねることができて、お、このあたりに関わる言葉、言語感覚、頭の中に浮かぶ像、独特っていうか素敵っていうか、長年、人間がこだわってきただけのことはあるね、って感銘を覚えられたのだった。その影響が今こうして出てきている。
▼▼時節、季節感、具体的な世界への眼差し、生活風景、というようなものたちを並べてから、抽象的な話をするのは、ただ抽象的な話をするだけとは、異なる、と思えているのだ。感覚が何となく異なると思う。具体的イメージの中に抽象的なものを置くことによって何かが変わる感覚があるのである。というのは以前から思っていて、なんていうか、誰かの台詞として説明文を読むのと、ただ説明文だけを読むのでは、感覚が変わる、っていうのが、類似品かなあ、なんて思ったりもしている。具体的な文脈のうえに置くとなんか感覚が変わる。あるいは、具体性こそが体感的な文脈を形作ってくれて、そのうえに言葉が乗ることで、言葉は、より素敵な顔を見せてくれやすくなる、とでもいうかなー。単純に、こうして実際に感じている日々の中にある言葉のほうがよい、受容しやすい、だってそういう言葉が大多数だもんね、そういうものに適合しているはずだよね人間、という言いかたもできるかもしれない。
▼▼抽象的な言葉を最近はただ置くだけになっていたところがあって、なんかそれもまた変えたい気分が出てきたし(ちょっと飽きた)、ほかのひとが読む、ということと言葉を絡めてもよいかなあ、って気にもなってきたし(でもまあ、読んでもらうことのみ注力する、という「解釈」を持ってくるとちょっと拒否反応が出る雰囲気もあるので、ここはうまくちょこっと迂回できる言葉を当て嵌めといたほうがよさそうなんだけど)(そしてそれはぜんぜん思いつける気がするのだけど)、そのあたりについて、キャッチフレーズ的に何かを思うなら、あ、時節の挨拶がそうかな、っていうことを思いついたのだった。読む人の頭を、具体性の匂いから入り込ませる、ということについて考えるなら、その筆頭というか、最小限の姿が、時節の挨拶では、って思ったのだった。