雪の降る前日

▼▼東京に雪が降りしきる日の前日だ。雪が降り終わったあと、一日が過ぎて、振り返るようにして今書いている。過去完了的な意識で書く言葉って独特な印象があるなあ。独特で好き、と言える気がする。そういう言葉の是非というかよしあしというか、価値? 意味? あたりに面白さを覚えているよなー、と改めて思った。言葉の配置によって時制というか時間感覚というか、今、というものを言葉の上でくるくる回せるような、工夫できるような感覚が、好きだ。言葉の上なら時間で遊べる。時間的なダンスが舞える、みたいなことが言えるだろう。時間移動を夢見てるけど実際的な時間移動はできなくて悔しいので言語的時間感覚の混乱で気を紛らわしているだけ、ともまあ言える。
▼▼天気予報はあんまり見ないほうだと思う。スマートフォンに毎朝通知が来るようにはしているので、それくらいを頼りにして普段は生きている。あの強制力がなかったらもっと無頓着だろう。天候による致命的なダメージを負ったことがないから甘く見ている、ということでもあるけど、そこそこおおきなダメージのこともすぐ忘れちゃう、意識する癖がついてない、ということでもあるかなー。
▼▼スマートフォンが存在してくれていることによって結構生きる道筋が変わっていると思うのだけど、まあでも、スマートフォンに限らず、実際にはいろいろなものによってかなりねじ曲げられているんだとも思う。ここで「ねじまげる」という言葉を持ってくる人生観、世界観、運命観、を、ちょっと見直してもよいんじゃない? という発想も、出てきた。あと、実を言うと「ねじまげる」って雰囲気であんまり人生や世界を見ているところがないのに、言葉の上だと使いやすくて使ってるというか、紋切型が頭の中に残っていたというだけであっさり安易にそれを選んでしまう惰性感というか、そういうのの駄目さも思った。ねじ曲げられてる、と人生に対して思っているところは実際には少ないのだ(結局強調したいのはここなのだな)(そういう強調箇所について、言葉の順序を調整して、素直にわかりやすく書く、ただ読んでるだけで強調される順序に変える、ってことを、あんまりしようとしない、甘さが、弱点だろ、って自覚を、今持った)(情報の順序をあんまり変えようとしないよね……、なんかこだわりあるの?)。
▼▼もともとは「本来の」「ほんとうの」ルートなり形なりがあって、それを「何かが」別のものに変えている、ズラしている、という感覚と、何か余分なものや外界からのものに影響によって変えられているようにも見えるけれど、実はこれがそもそもなんだ、っていう感覚、ケースバイケースで使い分けしているところがあると思うんだけど(世界の事象すべてに対して一環させられてはいないと思うんだけど)、そのへんを整理してみると面白そうというか、変化させてみてシミュレートするのが楽しそうというか、なんか考えどころとしては好きそうだね、っていうことを考えたりもした。