世界は称賛に値する

日記を書きます

わかりやすい連続性ばかり見ちゃうせいでスケジューリングが下手

▼▼判りやすい(健全な?)連続性のもとで記録をつけたがる癖がある。定期的や連続的が好みで、不連続や断続的、間欠的、みたいなものを(意識上は)避けがちだ。好きだと思うことが習慣づいてしまっているな、と思った。けれど同時に、断続や不定期も活かそうよー、とも思ったのだった。記録しないよりはよい、っていうのもツッコミたくなったし、判りやすくて綺麗な連続性にばっかりかまけてるのよくないよ? というのもツッコミたくなった。
▼▼好きだー、と思えたものを、不連続でもよいから、まとめといてよ、と、じぶんに対して改めて思ったのだった。▼▼綺麗な連続性を意識しすぎてるせいで、綺麗な連続性のもとで行なうことを重荷であるかのように認識してしまって「じゃあ最初からやらないでよい」を選んじゃってるところあるから、無駄に連続性を意識しすぎるのやめて、好きに記録せよ、って思ったのだった。
▼▼たまにやる、たまにやろう、たまに、っていう切り口を、認識の中に放り込むのが苦手っぽいなあ。無意識的な行動を「たまに」とか「時々」とかを使って解釈することは別に苦手じゃないんだけど、意識して「たまに」やろう、と決心してスケジューリングする流れ、っていうのは、苦手としてる気がする。うまく習慣づいてない、というか、眼が向ける習性がない。計画というものを「毎日」「三日置き」「一ヶ月に一回」っていう「定期」スタイルで思い浮かべる癖がついている。
▼▼時間や日付という概念を自明視してしまっている、のかな? いや、比例とか幾何学のような数字で表現されるスケジューリング、を愛してしまっている──美を感じてしまってる、なんて言葉でも言えそう? 味を占めちゃってる、って言葉も思いついた。
▼最近は、行動計画の改善および再稼働を企図している。ので、このあたりの認識機構の習性を踏まえておくのはアリか、とは思った。数字的な連続性に見取れてしまう習性、のせいでスケジューリングが苦手、っていうの、核心に接近できてる雰囲気あるし。