世界は称賛に値する

日記を書きます

中級者的ありかた、の新版

▼▼標準的な手順、基礎的な知識、に従いながら形成すれば、素敵な「快」を放出させることができる、という芸術的テンプレートがあるかと思う。初心者の頃に学ぶ「基本的鑑賞法」も、これに近いものになるだろう。
▼▼でも、違う形でも、同じ「快」を放出させることができたりする。
▼▼丁寧に、繊細に、造詣すれば、出せる。あれ? 知ってる「出しかた」と違ってるのに「出てる」ぞ? っていうことに気づけたりする。
▼▼標準的な、基礎的な、快を理解して――体感して、その芸術(芸術ジャンル)が垣間見せてくれる気持ちよさを知って、だからこそ、型を破ったやりかたでも、それが出せる(出せている)ことに、気づけるようになる。
▼▼というのが、中級者的存在というもののありかた(の一つ)かな、と気づいた。
▼▼これまでの「中級者」観、と、少し違った気づきだったので、記録しておく。


▼▼これまでの「中級者」観は、言ってしまうと、見えるものが増えていく、気づける快が増えていく、視野が拡大し「これまで見えなかったものが見えるようになっていく」という雰囲気だった。映画で言うなら、映像演出を学び、音楽を学び、キャラクター造詣を学び、ストーリーを学び、演技を学び、歴史的背景を学び、興業のイロハを学ぶ、というような形だ。ひとつひとつ、掴める要素を、増やしていく。
▼▼正誤じゃなくて、初心者を抜ける切り口が二つあるのだな、と思った次第だ。