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Twitter十周年

雑談記 時節記

▼▼数日前に「Twitterが10周年を迎えた」と聞いた。Twitterは交流の流れを変えたと思う。回線上で人に話しかけやすくなった。滑らかに話しかけられる道を作ってくれた、というふうにも見做せるし、話しかけやすくなるような情報が放流されがちな場を作ってくれた、というふうにも見做せる。敷居を下げてくれた。思考記録、情緒や情感あふるる言葉、オモシロ日記、をホームページに書いてる同士、というだけでは、話しかけてよさそうだ、と判断しにくかったし、掲示板やコメント欄という場での「話しかけづらさ」もあった。必要勇気量が下がった、とも言える。まあでも、こういった「話しかける」という場で「勇気」を消費するかどうかというのは個人差がある気もするけれど……。
▼▼とは言いつつ、話しかけたりはあんまりしていないかと思う。人様と話したい、という欲望を第一義に掲げたい気持ちは薄めなのだ。とはいえ、それを第一義に掲げないほうがよい、と習慣づいてしまっているだけ、という気もする。そういうスタンスに慣れてしまっていて、今さら変えづらい、とか思っているだけ。つまり、新たな環境に適応することをサボっているだけ。▼▼あとは、うーん、やっぱり、話しかけ始めたらキリがなさそう、というか、嵌まってしまいそう、というのも、ある。かなりある。現状でも、まあ時々は、話せる。素敵な、好きな、敬愛する、書き手の人と、意思疎通ができる。というのに対する気持ちよさや喜びを見ていると、いやこれ絶対ハマるだろ、という予感がする。
▼▼ここには――インターネットには、敬愛してる人が多すぎる、とは言えるだろう。敬愛している人ばっかり観測範囲に置いているところがあるせいで、だからつまり、話せるということから喜びを得やすい環境を作りすぎているところがあって、結果として、ハマりそう。距離を置いたほうがよいと考えてしまいそう▼▼コミュニケーションを取ろうとした時の、ビビリ、緊張、面倒臭さ、などから、単純に似ているだけ、というのも当然混じってくるだろうけど。


▼▼できるだけ楽をしたいぞ動きたくないぞ周囲が動いてくれたらよいぞ――都合よく期待通り望み通りに世界が動いてくれる予感がするなあ――まわりがじぶんの思いや意向に合わせてくれるだろうじぶんは何もしなくてよいだろう、というような感覚のもとで、だから動かなくてよい、という選択肢を選んでしまっている、というような世界像に対しては、珍しく素直に「駄目だこれ」と言える気がする。警告なり糾弾なり否定なり、説教や説明なりを、を向けたほうがよい、と思える。思ったほうがよいと思える。どんな思想もアリだろう、と思いがちな性分なので、素直にそう思える領域って珍しい、と感じた。



▼▼ハートマークを沢山集めたツイートを、人気のツイート、重要なツイート、と判断して、上に並べてくれる、という機能は、とりあえずオフにしました。ぼくの好きなツイートは、半々で、ぜんぜんハートついてなかったりするし……。余計だ。
▼▼Twitterは、Twitterという英語表記も、ツイッターというカタカナ表記も、見た目の形状として、けっこう好きだ。