テレビゲーム攻略的な解析を世界に施してゆく流れの描写

▼▼テレビゲーム的なシステムを持った世界で生きることになった、という小説を最近いくつか読んだ。好きである。テレビゲーム的なものが現実に実際にあるとするなら、というふうに空間を設定してみた時に、その世界の挙動を形作っている「テレビゲーム的なシステム」を「解析」しようとしてみせる、っていう行動が出てくるわけだけど、こういう描写に新鮮味を覚えているのではないかな、と、ふと思った。以前はこういう言葉を小説の描写として読んでいる機会って少なかった気がする。この世で言うところの、物理学者が出来事を定式化し数値で記述できるようにしてゆく、っていうのと同じなのかな、とも思ったのだけど、論理の形状が異なっている気もした。計算できるようにするのとは目線が違う気もする。化学や医学、経済学、あとまあ、工学寄りかな。


▼▼現実システムとゲームシステムはぜんぜん違う。形状を支えている力学がぜんぜん違うからだ。ゲームシステムが見せる運動を比喩的に持ってくるようなことによって、現実システムに向ける眼差しや解釈を変えることもできるはずだけれど、比喩的に用いて解釈や感覚を変えてみせるのと、「実際にそうである」のは、やっぱりぜんぜん違う。
▼▼ゲームシステムと同等のものがほんとうに世界を形作っている現実システムとして存在してしまった場合、どういう世界が出来上がるのか、どういう社会が出来上がるのか、どういう人類が出来上がるのか、でもって、諸々の現象の無理や矛盾に対してどういう口八丁が可能になるのか、っていうところがあって、ここに関する、翻訳のしかたや工夫のしかた、誤魔化しかた、などが、テレビゲーム的システムを現実化させた小説の楽しみどころである、ということも思ったりした。攻略本の解説のような小説描写をまあまあ好き好んで読んでいるところはあるかな。小説家の「うまいこと隙間を埋めてみせる」腕前を眺めて「やるねえ」って思っているところはある。


▼▼『フォーチュンクエスト』とか『MADARA』、『魔法陣グルグル』なんかの、ステータス表示などがあった昔の「テレビゲーム的」な雰囲気があった物語と、現行「テレビゲーム的なシステムを解析しようしてみせる」物語も、比較しつつ考えていた。やっぱりTRPGのリプレイも絡んではきそうだなー。ステータス自覚を持っている人物の発言、っていう意味では、やはりここに目立っているものがあった。あとまあ、確かに昔はあんまり「ステータス自覚」がなかったように思える。というのを避けさせていたものや好ませていたもの、というのがあるならば、なんなんだろう、とも思った。