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哲学の敵対関係──『哲おじさんと学くん』

読書記 印象記

哲おじさんと学くん (日経プレミアシリーズ)

哲おじさんと学くん (日経プレミアシリーズ)

 哲 自分自身の人生において直接感じた、普通ならどうしても情緒的・感情的にならざるをえない最も生々しい問題を、あたかも数学の問題を考えるときのように、少しも情緒的・感情的要素を含めずに、徹頭徹尾冷徹に、事実と論理だけに基づいて考えていくことができるかどうか、しかも、そのことに喜びを見出せるかどうか、もっと言えば、そうすることが救いになるかどうか、それがその人が哲学ができるかどうかを決める。これができる人は少ない。普通なら宗教のようなものに頼ってしまわざるをえない場面で、あえてそれを拒否するわけだから当然とも言えるが。
 学 矛盾する二つの要素を組み合わせなければならないわけだね。文学的・宗教的な問題に科学的・論理的に答える、と言ったらいいのかな。
 哲 そう。言い方を変えれば、問いにおいて科学に対立し、答えにおいて宗教と対立する、とも言える。つまり哲学には二種類の敵がいるわけだ。一方には、そもそも問いの設定の仕方が非科学的だと言って非難する人がいて、他方には、答え方があまりに理詰めで人間の機微に触れていないといって拒否する人がいる。
 学 いや、でも、組み合わせ方を逆にして、科学的な問いに宗教的に答えるような人といちばん対立していることになるんじゃない?
──P.28 第7話 哲学には二種類の敵がいる

 哲 祈りを拒否する祈りという意味はね、宗教の祈りにひそむ隠れた不誠実さを拒否して、宗教よりも徹底的に誠実に祈るということなのだ。だから、祈らない祈りと言ってもよい。それでもなぜ祈りと言うかといえば、そこに究極的には一種の信仰があるからだ。常識や教義によって独断的に答えたくなるようなところで、どこまでも論理的に、理詰めに考えていくことこそが最も価値ある行為であるという信仰だ。キリスト教信仰が育てた誠実さが最後には神など実は存在しないことを誠実に認めることを強いた、というニーチェという哲学者の有名な言葉があるが、それが哲学なのだ。ポイントは宗教を拒否するその誠実さそのものは依然として宗教的な誠実さだというところにある。哲学徒は、理のあるところにのみ従い抜くというこの信仰を決して手放さないのだ。
 学 前に「そうすることが救いになる」と言っていたけど、あれはそのこと?
──P.32 第9話 本物の問題であると見なされること自体が嫌がられるような問題がある