『哲学の道場』中島義道──「観念」という言葉を使う理由

哲学の道場 (ちくま文庫)

哲学の道場 (ちくま文庫)

 ここに、哲学者が「観念」という言葉を使う理由があります。つまり、時間を表す言葉、自我を表す言葉、美しさを表す言葉はさまざまでも「時間という観念」「自我という観念」「美という観念」は同一だと決めてかかる。たしかに、これは「暴挙」なのですが、しかし必要な暴挙です。といいますのは、例えば「ある」という言葉の襞に分け入って、物体のあり方、こころのあり方、意味のあり方、空間のあり方、時間のあり方、数学的対象のあり方、架空物のあり方、過去のあり方、未来のあり方、神のあり方……何百通りの「ある」を分類したとしましても、それによってわれわれは「ある」という言葉が一層よくわかったことにはならないからです。これによって「神はあるのか?」という問いが一歩でも前進したことにはならない。むしろ、なぜにこうまでに多様なあり方に同じ「ある」という言葉を使うのだろうか、そして理解できるのだろうか、というほうに哲学者の関心は向かいます。
──神も一〇〇ターラーも「ある」 - 『哲学の道場』第四章

▼▼概念と観念、って二つの単語については、多少、整理できたつもりになっていたのだけど、改めて混乱したかと思った。▼▼読書によって、混乱が深まった──掻き回されて判ってたつもりが覆された、っていうのを記録するのはよいと思った。
▼▼概念および観念。意味、って言葉までを含めてもよいかな。整理できてるつもりには結構なっていて、けど、甘かったかと思った。
▼▼おのおのの言葉が見せる「イメージの違い」が掴めていた程度だったのだろうな、と思う。けれど、おのおのの「イメージの違い」によって実際は何が違うのか? までは認識できていなかった。言葉ごとの「世界に与えうる効果」や「できること」が、いかに異なっており、言葉ごとの「効果の違い」や「可能性の違い」によって、目的や用法がどう異なっていて、このような様々な違いによって、言葉ごとに、どのような地位ないし存在理由を与えられてきているのか? ▼▼なんてところまでは踏み込めていなかった。
▼▼というような整理をした。▼▼状況整理ですぐ満足しちゃうから、実際的な世界に対してのアプローチ面の認識が弱くなっちゃうのかも、というのも思いついた。