- 作者: 中島義道,小浜逸郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2013/07/10
- メディア: 文庫
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カントから離れてこれを言い換えますと、哲学するにはけっして一般人の言語感覚を失ってはいけないということです。物理学者なら、時間を論ずるさいに物理量の変数としてのtから出発してもいいかもしれない。だが、哲学者たるもの、「時が流れる」とか「はやく夏休みが来ないかなあ!」という普通の言葉づかいを無視してはならない。時は決して「流れない」と私は思いますし、夏休みは絶対に「来ない」と思うのですが、それを誤りと断ずるだけでは十分ではない。われわれは、なぜこうした誤りに陥るのか? そういえば、流れる当のものは水なのだが、「川が流れる」と言う。この言い方は「時が流れる」という言い方のヒントを与えてくれるかもしれない。あるいは、夏休みが電車のように「来る」のではないことを知っているのに、なぜ同じ「来る」という言葉を使うのだろうか? しかも、この言葉がいかにも事態をよく捉えており、不自然な気持ちがしないのはなぜなのだろうか?……とズンズン考えてゆくのが哲学者というものです。
ですから、哲学者はつねに普通の言い回しに神経をとがらせている。「……が目に浮かぶ」とか「わが耳を疑う」とか「神経を逆撫でする」とか「うしろ髪を引かれる思い」というような日常的な言葉づかいをいつも反省しながら生活している。こうした普通の言い回しこそ常識の住処ににほかなりません。そして、その住処を正確に見聞きし点検し、いや実際に住んでみるところからしか、時間論も存在論も認識論も発芽することはないのです。
──哲学は常識に基づく - 『哲学の道場』第四章
▼▼思考力ってもしや比喩力のこと?なんて疑問文が思い浮かぶ瞬間が時折あって、なんかこう、このあたりの問題意識まわりをうろうろしてる時に思いがちかな、と思った。