世界は称賛に値する

日記を書きます

『哲学の道場』(中島義道)読んでる

哲学の道場 (ちくま文庫)

哲学の道場 (ちくま文庫)

 そして、さらに私が右手を上げようとするとき、右手がなくとも、運動神経がなくとも、右手を上げようとする「感じがする」ことになる。なぜなら、私が右手を上げようとするときに脳の「出口」で右手を上げようとするときと同一の神経興奮を与えれば、その先に右手がなくとも私には右手が上がる「感じ」がするはずであり、さらに私には右手が上がっているのが「見える」はずだからです。
 こうして、私は今浜辺で広大な海を眺めているのですが、そしてギラギラ照りつける太陽を浴びているのですが、そして熱い砂浜を歩いているのですが、そして渚で波に脚を濡らしているのですが、じつは培養液の中の脳なのかもしれない。
 何で、こんなお話を作るのか。それは、われわれ人間はみんなわれわれよりはるかに知的な生物が飼っている培養液中の脳かもしれない、というSFにもってゆくのではなく、どうもこうしてみると、現在の生理学がすべてを脳へと押し込めている図式全体がおかしいという感じがはっきりするからです。
 こういう少々グロテスクなお話を作ることは、デッサンで見たままを素直に描くより、ムーヴマンを考えて理論的にこうあるべきデフォルメを加えると、より一層リアルになるという技法に通じます。小林秀雄は「哲学者は思想を磨いてきたが、言葉を磨いてこなかった」と批判しておりますが、哲学者たるものみずからの固有の「言葉」を発見し、それを磨き上げることが是非とも必要なのです。自分の「思い」を自在に語れるような武器としての言葉を開発する必要があるのです。
──とっぴなお話を作る/『哲学の道場』第一章

 このように、哲学的思索に「修行」が不可欠なのは、普通哲学的に重要な問いはすぐ言葉がなくなってしまうからです。「私って何だろう?」とほぼすべての人が問いを立てる。だが、わかり切っていることとまったくわからないこととのあいだをユラユラ揺れ続けて、すぐにそれ以上問う仕方がわからなくなるのです。
「いじめを解決するには?」という問いなら、「地球温暖化への対処は?」という問いなら、次から次に問いは細分化し、拡大し、他の問いと連携し、その問いは張り合いのある問いです。何を問うているのか明瞭だから。そして、その答えのありかも明瞭だから。しかし、「私とは何か?」「今とは何か?」という問いは、手のほどこしようがない。すぐに、問いは尽きてしまう。「今とは何か?」と問うてごらんなさい。今とは今なのだ。未来でも過去でもない今ということ。それで終わり!
 哲学的思索に修行が必要だというのは、こうして誰でも疑問をもつ事柄に答えようとするとアッというまに言葉を失いますから、それにもめげずにどこまでもどこまでも問い続ける修行をしなければならないということです。「私」や「今」や「存在」に対して、手垢にまみれた日常語はあまりにも茫漠としていますから、日常語に代わるカッチリとした学術用語を考案してでも、問い続けうるような技術を学ばねばなりません。
──哲学の問いはすぐ言葉がなくなる/『哲学の道場』第四章

▼▼驚きと疑いを下地にした世界に対する眼差し「の解説」から、妙に静謐な気持ちよさがもたらされる、なんて印象が少しある。