どこかのタイミングで、それを「体験」したら、その後、「体験」の記憶は、いつもスタート地点に近いほうに置かれる、のでよいのか

▼▼能書きより体験のほうが早い、人の話より実体験のほうがよい、意味記憶よりエピソード記憶のほうが強い、といった順位の付きかたは、まあ、判る。確かに実際にやったことにはおおきな衝撃がともない、前面に来る。だから、物事について考える場面での「参照」時にも、言葉で憶えたこと学んだことよりも、体験での記憶を「前に」「先に」見てしまうところが、ある。あったりすると思う。最初のほうで参照してしまい、結局は基準にしてしまう、という状況がある。
▼▼のだけど、この「基準にしかた」「順番」「構造」が、いつだって妥当ってわけでもないんだぜ、ということを、今回改めて思った、のであった。実体験のことをまず見てから考え始めることが、常に有効打である、とは断言できないんじゃないか、と思えた。些細な差だが差はある。
▼▼道理を理解する時に、実体験を思い返して、ああ、あれのことですね、って思うことは多く、理解の王道だとも思っているのだけど、この時に為される「視野の狭まり」「拡がりの可能性の潰し」「確定具合」のことは、踏まえておいてよいだろう、と思った。