世界は称賛に値する

日記を書きます

体験を比較的大切にする、あるいは、体験と記憶をどちらも大切に

▼▼物事に対する評価を考えた時に、最中の感覚と事後の感覚――リアルタイムにおける気持ちと改めて思い返した時の気持ち、が、混ざってしまうことがある――混ざってしまうことも、ある。頭から取り出してみたらぐちゃぐちゃに混ぜ合わせられてしまっていて分別しづらいことがある。無論、時には、丁寧に分類された状態で保存されている――保存してくれている、こともあるだろう。▼▼最中の感覚と事後の感覚、が、おおきく乖離していると――別物のように変質してくれていればいるほど、見分けやすくなる、というのは、あったりしそうかな。
▼▼のちのち、物事が持つ何かに気づいて、より好き/嫌いになることがあるし、評価が百八十度変わることもある。
▼▼最中にぜんぶを読み取ってみせることはできなくて――ぜんぶを「思う」ことはできなくて、いつだって誰だって取りこぼしはあるのだから、のちのち評価が変わるのは、当然(最中の感覚と事後の感覚、というのは、誰でも、どんな時でも、あって当然)、というふうに思ってしまってよいか迷ったのだけど、なるたけ取りこぼさないように意識することによって、つまり心構えで、取りこぼし率は多少変えられそうだし、普段なら「のちのち気づきそう」なことに、気づけた場面だって、実際に経験してきてるはずで(あるいは、普段なら気づきそうなことに気づけないことだってあったはずで)、最中の感想と事後の感想に対して、ここだ、と線を引き、この線は、当然いつもあるのだ、と、言うことは、まあできなそうだなあ、とも思ったりした。混ざるのが当然だ、という顔はできないな、と思ったのだった。最中の感想がほぼすべてになる視野の広い者も想定してよい。

▼▼話ズレた。

▼▼ここ数日、ボードゲームの感想を書いている時に、ボードゲームの楽しさについて書くなら「リアルタイムの気持ち」のほうに重きを置いたほうがよいのでは? 優先したほうがよいのでは? ということを考えたのだけど、考えた時に、読書について感想を書く時には、読書中の気持ちと読後の気持ちを五分五分くらいにしてるかも、ということにも気がついた。読書中(リアルタイム)に思ったこと考えたこと感じたこと「のほうが」大切だ、とは、思えていない気がする。読書中と読後、どちらも勝者にしちゃいけない、という感覚かなあ。けど、ボードゲームに関しては、体験中に軍配を挙げることに躊躇がなくて、なぜだろう、と思ったのだった。
▼▼小説というものは読んでいるまさにその時の体験こそを大切にすべきだろう、というような切り口を(保坂和志氏などの)文学の周辺では見かけることがあって、これってつまり、こうしてボードゲームに感じている感覚のことかなあ? いやこれとはまたさらに別の話なのか? という疑問も持ったりして、なんかまあ、いろいろと考えていたのだった。じぶんの中で、読書とボードゲームを分けているものはなんなのだろう。
▼▼体験中の感覚を比較的大切なものと見做してよさそうな出来事、と、体験と記憶を同じくらい大切にしたほうがよさそうな出来事、というふうに、二分できるんだろうか。