世界は称賛に値する

日記を書きます

はてなスター自動3つ営業人の見せる極小可能性がなぜか見えない

▼▼可能性だけを見るなら如何に極小の可能性でもありうる、とは思いたがりだ。人が死なない可能性だってあるかもしれないじゃん、なんてことを思えるだけの精神および視野は維持したく思っていることは多い。
▼▼のだけど。▼▼とはいえ。
▼▼ブログを更新した直後にはてなスター三つ程度を常に押してくる完全自動的スター営業の人(というような者がいるようだ、ということは認識している)が、実は、はてなスター三つをほぼ完全自動で押しつけつつ、しかし、実は営業先のブログを丁寧に読んでいる、ということは、まあないだろうなー、というか、あるとぜんぜん思えていないぞ、極小の可能性としてはありえるはずなのに完全に想像の埒外になってません? ということに気づいて、おお、これ、なんでだ? と、今回は、思ってみたりしたのであった。


▼▼なんというかつまり、世界の摂理についての微細な可能性のことは、見たがる習性があるのだけれど、人間の行動や習性?社会の仕組み?等に関しては、あんまり微細な可能性を見ようとしない癖が出来ている?のか?って思ってみたりもした。


▼▼営業と購読を兼ね備えた、人格や性格、行動基準、が微妙に想像できない、うまく統合させられない、というようなところがありそう、とは、思ってみて──思ってみたりもしたのだけれど、でも、ものすごく想像しづらい人格や性格が、実在することなんて、いくらでもあるし、いくらでもいるし、とは思えているかと思うし、非常に想像しづらい人の実在をまあまあ前提化させられているつもりでもある、のに、なぜ、はてなスター3つ押し者の誠実さ、は、想像できないぞ……! って思ってしまうんだろうか、というふうに考えてみて、改めて、このあたりのことを強く不思議に思ったりもした。如何なる違いがあるのか? と思い受かべてみたりした。