終わった職場の送別会

▼▼以前の職場の送別会だった。相変わらず順調に順当に淋しかった。足場にかける重みの強さは次第に弱く(するように)なってきている感覚があるのだけど、変質するほどには、まだ、変わっていないようだ。消えたり失ったりなくしたりした時に引く線の濃さは相変わらず似たようなものであった。


▼▼喪失的な事柄に対するスタンスによって人生観や行動理念がおおきく異なることがかなりある、と思ってしまうことは多くて、と同時に、人格や性格において「相手と異なるほどに気になってしまうところ」の代表格がここな気がする、なんて思ってしまっていることも多い。多い気がした。
▼▼人格や性格、人生観や行動理念、の異質さにおいて、異様に気になってしまう──妙に過敏になってしまう──軋む音が響き渡ってしまう、というようなところと、違いがおおきすぎるせいなのかそもそも互いが接近しない形状や動作をしているのか、特に摩擦も抵抗も発生することなく、潤滑にというよりはほぼ関わらないまま、ぜんぜん気にせずに済んでしまうところ──互いが互いの違いに意識が向かないところ、というようなところがあるかと思っていて、前述した「喪失的な事柄に対するスタンス」というのは、けっこう「異質であることを気にしてしまう」雰囲気を持っているよなあ──持っているような気がするけどなあ、とか思わされていることが多かったりするのであった。


▼▼喪失や別離において、こだわる派、引き延ばす派、後悔する派、名残惜しむ派、引き摺る派、あたりの精神派閥、と、諦めたり、無視したり、捨てたり、意識的に前を向くようにしたりしてみせる、ような精神派閥、と対置させられるかな……。互いに互いが「そう扱うべきじゃない」と感じてしまっている? とか思ったりはする。互いが互いに、軽んじられているような気持ちになってしまうんじゃないかな、と思ったりもする。
▼▼互いが異なるやりかたを取っていた時に、なぜか「じぶんのやりかたが軽んじられている」かのように思えてしまったり、なんとなく「じぶんのやりかたが間違っている」と暗に攻められているような気持ちになってしまったり、する、ような「攻められていると思ってしまいやすい過敏な精神種があるんじゃないか、なんてふうに思ったりすることがあるのであった。
▼▼でもって、喪失関連ってけっこうそれが顕著な気がする、と思っている。
▼▼継続と放棄、足掻くのと諦め。喪失に対する抵抗と受容。というのはまあ、死生に繋がる話にもなるかと思うので、死生に過敏になるのは当然かも、って気もした。