権利は分かち合えるかも

▼▼人類がいかに増えようとも世界や空間を綺麗に分かち合って生きることができる、とは思えていない。侵害や侵犯、邪魔、妨害、強奪、迷惑、といったことが、絶対にいずこか混じってくるだろう、と想像している。互いの領域を奪い合わねばならぬ日が来る可能性は高い。現状でさえすでに限界を超えている気すらする。
▼▼というふうに踏まえてしまっているところがあるため、人に迷惑をかけない範囲で人は自由、人に危害をあたえない範囲でなら人は自由、罪を犯さない範囲なら人は自由、といった言い回し群には、違和を持つことがある。皆様各位の範囲はそんなにうまいこと分かち合える面積や体積なんですかね、って思ってしまう。誰もが「罪を犯さない範囲」というのを維持できるように人類の「罪になる基準」は定められているのかなー、とか、特に思ってしまう。なわけないじゃんと思ってしまっている。


▼▼で。
▼▼人の持つ権利を侵害しない範囲でなら自由、といった言い回しを、今回見て、あ、もしかしてここに関しては、少し違うのかも、って思った。権利はもっと都合よい可能性があるかも、と思った。ぼくらのあたえられている「権利」という概念は、ある行為が事後的に判定される「犯罪」という概念と違って、事前にあたえられている。持っている。と見做すことが(いちおう)できる。実現された結果、行為が内包する権利同士がぶつかり合うことも、当然、あるのだろうけど、でもそれは、ある実際の行為の中に含まれた「権利」というものが、追い詰められたり邪魔されたり傷つけられたりしただけであって、権利自体が亡き者にされたわけではない、といったふうに見ることができるんじゃないかなあ、と思ったのだった。
▼▼実際の行為の中に含まれた権利同士が、ぶつかり合うことや、誰かに判定されて強弱や勝敗が決められることは、ありつつも──具現化した個別の権利同士の戦いのようなものはあってよいとしつつも、それはそれとして、互いの権利は──互いにそのそも権利を所有しているということは、認める、といった形である。


▼▼権利を侵害しない、ということは「相手の所有している権利」を攻撃しないということであって、「相手の表出させた権利」を攻撃しないということではない、という解釈が許されるなら、「権利を侵害範囲でならぼくらは自由だよ~」って言い回しが可能になるじゃん、と思ったしだいである。その解釈無理じゃない? という人と、その解釈あまり好きじゃないなあ、という人が、当然いるとは思うので、まあ、一つの形、一つの面、として、とりあえずこうも見ておこう、という雰囲気である。
▼▼万人受けはしない側面であっても、一回見ておいて、問題があった時などに随時呼び出せるようにしておくと、対話の時などに便利だったりする、ので。




▼▼翌日の思い直し。
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