世界は称賛に値する

日記を書きます

発語した疑問文にカウンターを当てていく競技(競技名)があったら、それを比喩として使えるだろう(名前があるって大事)(題名として合ってるかこれ)

▼▼思考に「カウンターパンチを当てていく」という比喩を昨日の日記で書いたけど、四輪車のドリフトテクニックにおける「カウンターを当てる」って概念のほうが似合うのでは? って思ったりもした、というかむしろ、これまで実際、普段は「カウンター(カウンターステア)を当てる」って言葉を思い浮かべてることが多かったのだけど、改めて言葉にしようとしてみたら、実際的な挙動として「カウンターを当てる」ってものがうまく理解できていないのでは? という不安が急に湧いて──つまりビビって、結果、まあまあ近そうな比喩として「カウンターパンチ」を持ち出した、という経緯がある。
▼▼放置も好ましくなかったので、カウンターステアについて改めて調べてみたら、思考に対しての「繊細かつシビアな動きで細やかに調整していくような挙動」の比喩、としては、カウンターパンチよりむしろカウンターステアのほうがよさそう、と、今度は、まあまあの理解のもとで素直に思えてきたので、認識修正的な狙いで書き換えてみた。
▼▼カウンターパンチもカウンターステアも「カウンター」って概念を下地にすることで認識された動きなのだし、つまり最初から下地である「カウンター」って概念だけを利用して比喩を創造してみせることはできない? ▼▼思考に対するカウンター、って言い回しになるのかなー? ▼▼比喩かそれ? 初期認識に戻ってない? ▼▼まあよいけど。
▼▼思考に対するカウンター、ってものは、疑ってかかる気持ち──疑いの眼差し、のようなものと、尋問する時の台詞回し、あたりが核心になるよなー、とは思った。改めて比喩を考えるならこのあたりをうまく拾い上げられていないと駄目だ、とも思う。
▼▼尋問に際しての手続き、って言葉も思い浮かんだ、し、尋問の手順、って言葉も思い浮かんだ。このあたりも踏まえてみるべき? ▼▼関連しそうな単語が浮かぶたびに、物事や現象の周辺を見回して対応する挙動を探し回ってたら、切りなくない? 
▼▼ぜんぶをぜんぶ一回の説明で語り切らないと駄目ってわけでもないんだから──丁寧に一つずつ説明していくやりかただって時には大切なのだから──長くてくどいと大切さがとっちらかって混乱を招いちゃって破綻気味の駄目駄目に繋がるのだから、思いついた物事をすぐ羅列しまくろうとするの自重しろよなー、って思った。
▼▼思考に対するカウンター、の話、エッセイとかで学んだよ、って昨日の日記で書いたけど──実際に学んできたとも思うけど、思考に対するカウンターの話ってつまり「批判的思考/クリティカルシンキング」の領域の話かとも思えてきたので──批判的思考を説明する書籍は複数読んだし学べたものもあったなと思えたので、このあたりも、また、認識を修正したのだった。▼▼批判的思考って大事! 批判的思考をしないと! って話を昨日してたことになるなら、当然のこと言ってるなあ……、って思ったりもした。
▼▼じぶんの思考を疑っていこう──丁寧にきっちり批判を向けていこう──カウンター当てて軌道修正していこう、なんて謳ってるだけじゃ、駄目だろ、というような反省も少し思った。説明不足かと思えた。おおまかな指針を打ち立ててるだけとか安直や安易に逃げすぎだろ、と思ったのだった。▼▼指針のもとで行なうべき一つ一つの具体的な動きを説明してないと手落ちだよなー、ていうかせめてじぶんの中での具体例や実例くらいは挙げてないと意味ないだろ、という指摘が浮かんでる。おおまかなことを言う、のは簡単なのだ。おおまかなことも言いつつほかのことも言わないと……。
▼▼けどさあ、おおまかな理解に対して「おおまかな理解の比喩」をぶつけてみせることによって、脳内のおおまかな理解、を震えさせ、実感のようなものを誘う、っていうものは、おおまかな理解に対して「具体的な動き」を見せて実感を誘おうとする、っていうものとは、別枠や別手段や別効果、として、認識しててもいいんじゃないの? 合ってよいのでは? ▼▼おおまかにはわかってるんだけどうまく腑に落とせていない、っていう状況に対する打開策として、二つのやりかたがあっても別によくない?