世界は称賛に値する

日記を書きます

言葉を三行、書く時

▼▼認識における、核心とか心髄とか勘所とか根底とか軸足とか、言えるようなところの説明や疑問文を、三行くらいの文章で書けた時が最も気持ちよい、って印象があって、三行ほどの文章が実際に書けた時のことを思い返していたのだけど、三行ほどの言葉で綺麗に完結してくれるような短い切り口の言葉が浮かんでくれた時の三行、と、比較的長く書けるような論旨が浮かんでくれて言語変換してみてうまく切り出せたのが三行だった時の三行、って、少し肌触りが違う気がする、って思って、これって何に対して「違う」と感じているのだろう、差異を見做したがっているのかな、って考え始めてた。
▼▼完成品と部品じゃ違って当然でしょ……、って指摘が思い浮かんだのだけど、正確に言うと、前者である「最初から三行で浮かんだやつ」を「完成品」として見ているわけでは別にない、気がした。▼▼想定できていたのは、単独で自立している「完成品のような三行」が即座に思い浮かびました!って言えるようなものではなくて、ほかとの繋がりがありつつも言語変換の過程でうまく区切りを差し挟むことができて三行だけは言葉にすることができました!って言えるようなもの、であった。
▼▼脳内の時点──発想する時点で、区切りや制限を加え──視野やら定義やらを意図的に狭くするようなことができて、結果、出してみせることのできた三行、と、脳内/発想の時点では制限をかけることなく言葉にしてみちゃって、言語変換後に見渡せた「思考の動き」の中から優劣を見て切り出してみせた三行、のような違い? って認識してよいかな? と思ったけど、ここの違いがなんなの? と思い始めて、まあまた考える。
▼▼話題を「三行」にしたのは「一行」だとまた話が変わりそうな気がしたからであった。