コンテンツの本質──『ルールを変える思考法』

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)

 人間が五感を通じて外部から情報を処理するときには、何かしらのパターンを見出せる場合もあれば、何も見出せない場合もある。でも、その中間もあるのではないでしょうか。つまり、「何か新しいパターンのような気がするけど、確信が持てない」というケースです。

 自分にとってあまりにも理解の限度を超えたものについては、「関係ない」として関心をなくしてしまいます。しかし、微妙なもの、つまり、「わかりそうで、わからないもの」は、とりあえず気になり、記憶にとどめておきます。なぜ記憶にとどめておくかといえば、生存本能がそうさせているのです。
 わからないものをそのままにしておくのは危険なため、どこかで気にかけておく。そうなると、次に同じものに遭遇したときは「これはこの前と同じものだ」と判断できます。つまり、わからないものをだんだん理解していくのです。
 そうやって、いったん理解したものへの関心は、時間の経過とともに薄れていきます。そのあと、ほかの部分へと関心を移していくのは、生存競争の中で人間が獲得した特性なのではないかと思われます。

 芸術や美術、あるいは宗教というものにしても、なんらかのパターンや理屈を見出すことはできても、完全に理解しきれない部分は残ります。人間はそういうものに惹かれる性質を持っている。逆に、多くの人間が完全に理解できるものは、コンテンツ性や芸術性を帯びてきません。

 また、わかりそうでわからないことがコンテンツの本質だとすると、その境界線は、人によって違うということが想像できます。どの境界線上にコンテンツがあるかによって、「コンテンツ」の大衆性が決まると考えています。
 大衆性を持つかどうか、コンテンツが高尚なのか低俗なのか、それを決めるのは「わかりやすいか、わかりにくいか」です。つまり、わかりそうでわからないというコンテンツの魅力を、世の中の人間のどのレベルに合わせるのかという問題です。わかりやすいものは大衆性を帯び、低俗だとも分類されることになります。コンテンツに詳しい人にとっては、もはやありきたりのものにしか見えないからです。

▼▼最近の試行錯誤と響き合ってくれて、わりと興奮気味に読めた。コンテンツの本質に関する話。仮説。微妙に判りそうで、微妙にワカラナイ、ことによる引っ掛かり、が、脳内を沸き立たせ、楽しくさせる、っていうの、わりと実感できる。ヒントにできそう、と思った。▼▼でもって、わかりそうでわからない……、と思わせることが言える──言い回しで「わかりそうでわからない」を演出できる──理解を煙に巻ける、なんてあたりの技術によって、興味なり尊敬なりを奪い取りながら生きていける? のでは? なんていうやり口のことも浮かんだ。
▼▼騙そう騙ろうという詐欺的な狙いの話、ばかりじゃなくて、現時点の人類では完全には理解しきれないような問題、について、誠実に、理解できるところだけ語っている、と意識した話しかた、であっても──時には当人がじぶんはぜんぶ理解できていると勘違いしている場合すらあっても、聞き手側から見たら、判りそうで判らないけど判るところもあるなあ、という手応えの話に見えていて、妙に聞き入ってしまう──素直に興味や尊敬を持ってしまう、ということがありそう、って思った。
▼▼簡単に思惑を説明すると、ぜんぶ理解してるわけじゃないよと思ってる人の説明、もしくは、ぜんぶ理解していると勘違いしてる人の説明、を聞いて、聞き手であるじぶんも明確に理解できてないから、この人すごい話するなあ……! なんてふうに惹かれて、尊敬しちゃってるケース、ありそう、と思ったのだった。
▼▼盲信せずを避けるべく疑う癖をつけようぜ、ってのを掲げてること多いけど、こういう「聞き慣れない話だけど、なんとなく聞いたことあるような──判るような、話、に惹かれ気味」ってことについても、警戒を持っててよいかな、って思った。