世界は称賛に値する

日記を書きます

写真ぱしぱし撮って手軽に可能性無限大(正当諦め)

▼▼んなもんないよということは判るようになってきたのだけどなんとなく頭のどこかでは正解や最適解や唯一解があるような気分で接してしまっている──答え探しをするような心境で取り扱ってしまっている、というような状況が、やっぱりある。芸術や創作や表現といった分野でもわりとそうだ(人生という空間に向けても、まあ、けっこうやってしまっているんじゃないかと思うけれど)。


▼▼写真における素敵さや駄目さ、って、ほんとうにわずかな位置取りの違いだけで、おおきく変わる。まったく違って見える。数ミリの違いを組み合わせ続けていくだけで、無数の写真を撮ることができるし、無数の中で、良し悪しが毎回おおきく変わる。すごいよい!すごくだめ!の境目が、非常にシビアだ。ということが、最近ようやく、くっきりと理解できてきていて、写真を撮る、という表現形式に対しては、最適解、唯一解、というようなものを、あまり追い求めようと思えなくなってきた。数千枚くらい撮ろうと思えばあっさり撮れてしまうのに、その数千枚の中に唯一の「正しさ」があるとか思うの、おかしいでしょ、って、瞬時に想像できるようになってきた。無数の、大量の、可能性が、わかりやすく「顕現」してくれるおかげで、あ、無理や、って思えるようになった。


▼▼小説(文字・文章)とか絵って、写真と比べると、無数の可能性が目の前に気軽に沢山並んでくれるわけではないせいか、これまであんまり、あ、こんなに沢山「可能性」があるなら正解探しはやめときましょう、てか無駄じゃん、って思えたことがなかった、気がする。習作を沢山書くことで目の前に並べてみせて、その可能性のおおきさに、驚きと呆れと面白みを覚える、みたいな切り口も、とはいえあるはずなので、そういう修練をあんまり積めていなかったことが、結局駄目だったんじゃないすかねえ、ということも合わせて思った。とにかく書きまくってみろ、というような指南は、このあたりを実感させる効果も果たしているのだろうな、って想像できた。


▼▼とは言いつつ、写真からの学びからの転用によって、最近は、文字や絵にも、正解探し気分、を持ちこまずに済むようになってきたところがあるかと思う。言葉上では判っていた「正解がある、とか思うのやめなよね」っていうツッコミが、自然になってきた。

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