世界は称賛に値する

日記を書きます

必修授業や足切り点、のような、好き要因

▼▼こういうもの(A)を好む傾向が明らかにあって、逆にああいうもの(B)を普段は受け容れ難く思う癖があるのに、なぜかこの「A」だけは好きだと思えてない……、なぜかあの「B」だけは例外的に素直に受け容れちゃってる……、なぜ……!
▼▼っていうような混乱が起きてる場合、認識の背後にある評価項目──脳内で蠢いてる好意達成条件、が、実は複数あって、項目のうち一つでも20点を切ってしまってたらもうアウトー!とか、ぜんぶの合計点で150点を超えてないと実はアウトー!とか、項目の一つだけでも95点を超えてたらほかが駄目でも逆転合格ー!なんてふうに、変に錯綜してるというか「好意が発動するかどうかが複数項目に渡って決められているため『すぐ思いつける好きな理由の一つ』のご機嫌ばっかり伺っていても、判断の背後にある構造を見通せないよー」っていうような罠に嵌まってることがあるんだろうな、ってことに、最近ようやく思い至れるようになってきた。
▼▼まあまだ思い至るのには時間がかかるけど……。
▼▼昨日の日記についても、結局はこのあたりに嵌まってた気がする、なんて思ったりもした。▼▼自然体で脳内へ浸透させられちゃう評論、と、無意識的な障壁があるように思えて上滑りしちゃう評論、の違いは何処? って昨日は書いてたけど……。▼▼▼▼評論的なものを読む時、で言うならば、評論の書き手である人の作品に対する理解度、評論の書き手である人の作品のへの愛の深さ(が読み取れるかどうか)、評論の読み手であるじぶんの作品の理解度、じぶんの作品への愛の深さ、評論者とじぶんの性格的な相性、評論者とじぶんの視線や視界における相性、評論者とじぶんの読解のやりかたや目的面での相性、文章全体の組み立てかたの巧さ、言葉の選びかたの丁寧さと好み、論の緻密さ、などなど、複数項目おのおのを脳内で評点していて、しかも──さらに、勝手に組み合わせて合計点を見たり、勝手に足切りしたりしてるんだろう、なんて言えるのだと思う。meltylove.hatenadiary.com