認識の下地にしている五感と、比喩の下地にしている五感、のズレ

▼▼聴覚中心/視覚中心/言語感覚中心/身体感覚中心、などの、ひとそれぞれ的な「認識の軸」の違いがあるのです、って話を見かけたことがある(視覚比喩)けれど、こういう「認識における素地」の話と、発語時における「比喩における素地」の話って、同じものようで結構違うのかな、ってふと思った。
▼▼視覚中心の認識律を持っている人間だから、視覚中心の比喩を使いがちになる、というような判りやすい構図ではなさそうかも、って思えたのだった。
▼▼聴覚的なものを中心なり下地なりにして世界を認識していることが多い、のに、言い回しになるとなぜか視覚中心/下地のものを多く使ってしまう、みたいなズレが、たまに起こってる気がする。というかむしろ、時々出来るこのような齟齬から出てくる楽しさというのがたまにある気がする、って嗅ぎ取った(嗅覚比喩)のであった。
▼▼比喩的な言い回しは、実際の「じぶんの認識律」から出てきてるんじゃなくて、経験則的な「数々の言葉達との出会い」から出てきがち──聞いてきた言葉の傾向の影響をうけがち、なのでは? だから結果的に、時にはズレが出うる? とか思ったのだけど、真実味はまあ薄めかなー。▼▼言語体系的に「一つの認識軸における言い回し」しか見当たらない時も結構あるしなあ……。真実味、って言い回しを見て「味覚中心の認識軸なのですね」って言えるかは、まあ怪しめだ。