日光を解釈

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▼▼観光地ごとが抱える地理的解釈範囲を認識したことがない、とふと思った。ぜんぜん知らない。解釈できる知識がない。おもしろそうなのに、という気分だった。
▼▼ある小説が例えば「個人」を抱え、ある小説が例えば「知性」を抱え、ある小説が例えば「必然」を抱える――抱えているかのような読解可能性を持つ、のと同じように、観光地が抱える何かだってありうるんじゃないか、って思ったのだ。文学、と呼ばれるものが、文学的作品の中に投影なり仮託なりされたものを読み取ろうとする、というような意識プロセスを持つなら、地理学だって、同じような意識プロセスを見せてくれてもよいんじゃないか? って思ったのだった。
▼▼歴史学、考古学、民俗学、あたりの雰囲気の中で、最初は発想したのだけど、これはやはり地理学で見たほうがおもしろいかも、と現状では思えている。思えてきた。歴史上の人々が様々なものを作ってきた「地理」「地図」を眺めながら、解釈する――現在、出来上がっている地形から、何かを見つける。そういう眼差しのおもしろさ。
▼▼東京という街は「××」を抱えている、というような題目は、見かけたことがあるように思えた。というような雰囲気の頭の使いかたを、各観光地に適用できないか――適用したような言説ってあるのかな、という興味でもある(東京という場が抱えるもの、の話は、やっぱり、文化や歴史、そしてそこからの地理的状況によるものが多くて、現在の地形から何かを見做すもの、というのは、まあ、少ないような気もするけれど)。
▼▼日光をぶらぶら歩いた。人生で三回目の訪問だろう。日光の一部を認識して、認識はしたけれど、この一部だけで日光を解釈することはできなさそうである、とか、おもしろく思いながら、素敵なソフトクリームを食べ歩いた。偶然見つけた図書館に入り込んで書棚を眺めた。湯葉を食べた。含満ヶ淵のキャンドルイベントを鑑賞した。