日記の長さと好調不調/意志を疑って感情を疑わず

▼▼最近日記長くなるなー。理由が不明瞭だ。というか、好調ゆえなのか不調ゆえなのか好調不調の組み合わせによる過不足の問題なのか、が区別できない。いやまあ気持ちの問題で「複数要素の組み合わせパターン」を選択肢に入れちゃったら「組み合わせ」が正解に(一番近いもの)なるに決まってんだろ、って気もだいぶするが……。
▼▼しかしまあ、明確で極端かつ単一の「組み合わせじゃない」シンプルな気持ち、心の状況、判断、なんてものが実際にありうるんスかねー。脳の中や胸の中や心の中、は、複雑であり複合であることが基本っていうか、基本どころかぜんぶそれだろというか、まあ混合率の変動はあるにせよ、すべてが一色に染まることなどなくて、ギリギリ「極端な混合率の場合」の話が出来る程度だろ、と思うべきなのでは? ってあたりを考えてた。
▼▼ってところから連想で……。
▼▼脳科学における「意志や自我に対する疑義」に関する議論などが最近はあって、脳内に発生している(と認識できている)ものを疑ってみせる、っていうやりかたがあるのかあ、と思っているのだけど──でもってじぶんとしては非常に好きで程良く納得したりもしている話なのだけど、このあたりの話題を好みながら、頭の中の気持ちや感情の「複雑性」というか「複合性」というか「組み合わせ性」を自明視してるのって、自明視してるふうに語れるのって、どうなのよ? どうなのさ? って思った。どこからどこまで疑うの? 疑えるつもりになってるの? っていうか、噛み合わせがよくないのでは?っていうか……。喜怒哀楽や好き嫌いや恐怖や自尊心などなどの感情的部品の組み合わせで感情は構成されてるのだ、って理解を持っておこうとするのと、意識の諸々ってちょっと疑わしいですよねー、って話の、配置はどうなってるの? っていうか……。意志を疑うのと気持ちや感情を疑う話は違う、って言えたりもするのかな……。まあ違う認識なら違う認識で別にぜんぜんよいけど……。矛盾してるとかではないし……。▼▼ていうかまあ、自我と意志と感情と脳内好不調の話、を、混ぜてよいかも怪しいし……。
▼▼日記が──文章が、長くなるのって、視点が滑らかにスラスラ切り替えられてて(好調であるがゆえに)様々な話が混ぜられてるっていうのと、理解して言葉にする整理が上手くできてなくてだらだらしちゃってて(不調であるがゆえに)説明がめったやたら冗長になっちゃってるっていうのと、二つの型が思いつけるなあ、と思った。▼▼思いつけたので、好調なのか不調なのか判らない、と思った。
▼▼好調ゆえに物事を多面的に見ることができてて、視点を華麗に動かせていて、だから様々な話ができちゃう、いろいろな話が思いつけちゃう、っていうの、だからってぜんぶ記述する必要があるわけじゃないんだから、選べるんだから、選別せず書こうとしてるのは別問題、オマエの別の難点だぞ、変に混ぜるなよな、とかも思った。
▼▼やっぱり、話しかた──言葉の選びかたが、雑で、浅慮で、校正的な雰囲気で読み直したら、粗が目立ってきちゃって、言葉と理路を書き足したくなっちゃう、という、不調がゆえに整理できなくて長文化しちゃう型、っていうのも、ある気がしてきたなー。実際この文章自体、うまく整理できてないと感じるし、書き足してしまった。
▼▼意志や自我と、感情って、同じように疑ってかかってよい? なんていう、簡単には解きほぐせなさそうな問題に、さらっとちょっかいかけるからでしょ……。