世界は称賛に値する

日記を書きます

目の前の物を話題のゲストに呼ぶ(電波時計と醤油の話じゃなくなってる)

▼▼日記やブログを書こうとして話題が思い浮かばない時に、目の前の物(実際のところ現在は、電波時計や醤油が視野内にあるけど)を切り口にして文章を書く、っていう書きかたを、以前やっている人物がいて(はてな近辺でコンビニ店長と親しまれていたMK2さんがやっていて)、おお、これ、新鮮な遊びかただ、と思ったせいか、かなり印象深く記憶しているのだけど、これ、やってみよう、と自ら挑戦してみた時、挫折してることが多かったりもする、のだよな。
▼▼具体的な記憶にジャンプすること、と、抽象的な論にジャンプすることに対して、禁則じゃない? 狡くない? って気持ちをなぜか覚えてしまっているせいだろう、なんて思った。なんで駄目なの? って脳内質問してみたら、だって具体的記憶や抽象論にジャンプするのまで許しちゃったらもう何でもありじゃない? 電波時計とか醤油の話じゃ結局なくなってない? って答えが返ってきた。▼▼電波時計を切っ掛けに「正確な時間という概念からの人生論」展開し始めたら電波時計の話じゃなくなってるわけで……。
▼▼つまり、なんていうか、うーん、あれか……。▼▼目の前の物体をまるっきり「切り口」や「発端」としか扱っていないスタンスが嫌、ってこと? 目の前にある物体をせっかく日記のゲストとしてお呼びしたのに単なる話の踏み台として扱ってないか?なんだよあの司会者、みたいなこと? ▼▼あと、具体的記憶へのジャンプは別によくない? 電波時計や醤油の話じゃなくなってるじゃん!には該当しなくない?
▼▼確かに。▼▼たぶん、具体的記憶にジャンプ、についても、ゲストがしてくれた話を勝手に奪ってじぶんの話を始めちゃいましたー、的な印象を持ってる、のだな。▼▼あとあれだ。具体的な記憶にジャンプしたあと、ジャンプの切っ掛けになった物体自体が話題の中心になるとは限らないじゃん? 目の前の駄菓子から駄菓子屋の記憶にジャンプしたあと駄菓子屋で起きた事件の話になる可能性があって、駄菓子屋の事件の話は駄菓子の話じゃないじゃないですか……。っていうような流れを警戒してるんだと思う。
▼▼しかしな……。ゲストが「してくれた」話、って……。なぜ君は「ゲストの話」とやらをそんなにも活かしたがっているのか。尊重したがるのか。▼▼そもそもゲスト概念に対する敬意が強いのか、人の話を奪ってじぶんの話をし始めちゃう光景が嫌いなのか、もしくは、ただここで「ゲスト」や「奪う」という比喩を当てはめたからそう見えているだけで別にそういうことでもないのか、判りづらいところだ。