慣れと鍛えで耐えられるようになりゆく前提

▼▼すぐ疲れてしまい、すぐ飽きてしまう、といった状況が、慣れと鍛えによってなんとなくだいじょうぶになってくる──いくらか耐えられるようになってくる、といった現象が、最近少し納得できてきた。いくらか実感できてきたのではないかと思う。特にFPSやTPSでの酔いへの耐久性とボードゲームで遊ぶ時のプレイ時間への持久性に対して思うことがある。酔いにくくなってきたし疲れにくくなってきた、と思えているのだ。耐久性や持久性はちゃんと伸びゆくのだなー、ということが、これまではいまいち信用しきれていなかったのだけど(そもそもの努力経験不足のせいではある)、最近の体験によって、信用の下地が出来てきた、と言える。このあたりの認識の改訂を、勉学なんかに対してフィードバックできるとよいな、とは改めて思った。まあでも、いずれにせよゲーム的/遊戯的/娯楽的なものにまつわる経験であり、つまり「楽しさ」が勘どころになっている雰囲気があるので、楽しくやれていないと駄目なんじゃん……、ということも、注意事項としては思っておかねばだ。楽しさで麻痺させて活動していれば──楽しさで麻痺させることができるならば、いずれは伸びる。筋肉がついてくる。
▼▼楽しさが絡んだ時だけ、できている、だから、楽しくないではできない、楽しくないことなら伸ばしようがない、というようなことも、今回の「学び」では言えてしまったりしそう、なので、ほんとうにここは気をつけたい。あるいは別経路を開拓したい。楽しさありき、楽しさ限定、なのは、駄目というか邪魔というか、うまくない気がする。使いづらい……。うーん。まあなんだって「楽しいと思おうと思えば思えるだろ」的な認識コントロール法もあったりはする(つもりで生きている)ので、楽しさを持ってくる型の調整は、まあ、アリか……、と思えるところはあるかな。と同時に、つまらなくても淡々と遂行する、やらざるを得ない空間を作ってみせる、といったタイプの認識や環境のコントロール、についても、一緒に考えておかないと駄目そうだ。
▼▼楽しさをうまく活かすことによって耐久性を向上させられる、という術が、いくらかうまく活用できるようになったとしても、楽しさやつまらなさなんてものは無視して淡々と耐久性と持久性を向上させてゆくことができる精神、行動、には、結局勝てなそうというか、増加量が、まあ、下回ってしまうだろう。楽しさとかつまらなさとかではなく必要なことをやるのだ、といった意志の強靱さも美麗さも良さも判るので、このあたりも整理して使いこなせるようにならないと駄目かとは思う。
▼▼ここまできてまだ努力の話してんの? まだ整理しようとしてんの? 的なツッコミの発生量や発生率が、加齢と経験と慣れと飽きにより増しつつある気がするけれど、努力にまつわる物事に対して「まだしてんの?」「まだ考えてんの?」なんていうつまらないツッコミを入れて、結局努力に対する真摯な意志を捨ててしまうようなことが、むしろ致命的、むしろ駄目駄目、なんじゃないの、という気はした。改めて思った。ので、考え直すし思い直す、ことにはする。