名前があると語りやすく、語れたら満足感に浸れる

▼▼掌握できていると勘違いしてしまっていそうなのが怖い、とは思いがちだ。判ったような気になってしまっているのが怖い。予測できる──調整できる──制御できる、と楽観し過信していそうなのを怖がっている。
▼▼といったような「判ったような気」に至るプロセスとして「言えたような気」というステップがあるのではないか、と警戒しているところもあって、だから、この「言えたような気」的な場面に対しても、怖れのようなものがある。
▼▼精緻に理解できていなくても、対象に名前を付けて語ってみせる、というだけならまあできる。しかも、論理的整合性が緩くたって、語り終えるだけならば、できる。装飾も可能であって、装飾による誤魔化しも可能というか、メリハリを駆使して隙間を見えにくくすることもできたりする。
▼▼といった策謀と工夫などを使って「言ってみせる」ことで、意味のあること、価値のあること、幸福に繋がるであろうこと、などを言えたような気に陥り、満足感を覚え、満足感に浸り、結果、得られた快楽が、「判ったような気」、というものに導いてしまうところがあるんじゃないかなー、呼び覚ましてしまうことがあるんじゃないかなー、なんて想像していたりもする、のだった。


▼▼現象に、物体に、なにがしかの「名前」が付けられ──なにがしかの「言葉」が付けられ、何かが言われたりする。自ら何かを言ったりもする。論証や説明、余談、が、可能になる。でもって、その名前や言葉の話に対して、納得を感じていることも、ある。多々あるかと思う。名付けられたものについての話を、ふんふんなるほど、と聞いてしまう。
▼▼といった時に覚えられる「納得感」というのは、しかし、あくまで、付けられた「名前」「言葉」に向けられたものであり、根本にあった「現象」や「物体」に向けられたものではない、のでは? なんていうような怪しさが垣間見える瞬間が、時々、あって、だから、こういう「フォーカスが、名前、呼称、もしくは概念、のほうに向いているであろう、気配」については、なるたけ警戒しておかなくてはな、と、思っているところも、まあ、あったりはするのであった。