世界は称賛に値する

日記を書きます

ルールやマナーというライブラリ

▼▼感情主義者とまでは言わないにせよ、情動が、マナーやルール、常識、などを超えてゆく、というような認識は、比較的強く持っているほうではないか、と思った。理性や頭脳が見せる最善手、と、動物的本能や生理的欲求と呼ばれるもの、が、戦ったら、後者の勝率のほうがいくらか高いだろう、というような世界観だ。
▼▼という感覚で生きていると、違法や破戒や犯則に繋がりやすそう、って気がするのだけど、現状ではそのような気配はあんまりないっぽくて、なんでそうなってないか、というと、論理が好き、だからなのではないかなー、と思いついた。論理性や、論理がキレイに嵌まっている感触が好き、なことが、結果として、違法や破戒や犯則を食い止めてると言える。好きじゃないぞ、って思わせているところがある。違法とかはなんか違うんすよね、と思わせてる。
▼▼感情的なものや動物的本能や生理的欲求の達成ばっかりが中心になっている行動、をとにかく正当化してみせるような「生きるための論理」って、築くの大変、なのだ。おそらく大変なのだと思う。現状だと無理無謀の匂いしかしない。感情の暴れ馬っぷりと、正当性があると思い続けてみせることの、相性の悪さ。
▼▼マナーやルールが見せてくれる正しさ――マナー化なりルール化なりが実際にされてこれているほどの「人類が見つけてきた、典型的な、世界のよさ、人生のよさ、人間のよさ」みたいなところのことを、うまく活かしつつ――いいとこ取りしつつ、じぶんの「生きかたの論理」を構築する、してみせる、ほうが、楽ちんというか、妥当というか、手が届くんだろう。理解できる範囲で構築できる。できそう。



▼▼すでにルールやマナーとして扱われているロジックって、プログラミングにおける「ライブラリ」みたいなものなのかな、と、このあたりで発想した。