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漫画の選抜試験だと誰が選ばれてもオカシクナイ

▼▼物語で「選抜試験」的な流れに出会うことがある。好きなほうだ。最近だと『宇宙兄弟』アニメ版を見ていて、面白いなー、と思っていた。物語内に選抜試験があると、合否判定にまつわる展開および演出によって、ほんとうにこれ、誰が選ばれてもぜんぜんおかしくないな……、なんて思わせられることが多い。実際、数多く思ってきた気がする。ストーリーテラーの腕前が巧みなほど、見事に惑わされ、踊らされてきた気がする。誰がどう見たってこういう結果になるのは見えてたでしょ……、ってなことは思わせないくらいの印象が強い。騙し、誤魔化し、がうまい、とも言える。

宇宙兄弟(8)

宇宙兄弟(8)

▼▼意外性を作る腕前、と、ストーリーテリングの腕前、を、混ぜて考えたら変な混乱が起きちゃいそうな気もするけど……。同一ではないはずだけど……。
▼▼なんてあたりのことについて考えていて──
▼▼誰が受かってもオカシクナイ、って思えてしまうのならば、つまり、誰が受かっても問題ないと認識していた、ってことであり、このあたりから、誰が選ばれたとしても物語自体の面白さは損なわれなかった、ということにも、繋がりうるんじゃないかな? というようなことを思いついた。
▼▼誰が選ばれるかは特に決め手ではなかった、というか……。誰が選ばれていても問題なく面白い物語が完成しただろう、というか……。▼▼うーん、つまり、著者の気分とか気紛れで決まっただけなんじゃないの? というようなことを思っているのだなあ。綿密な計算や計画によるものではない、というか……。▼▼いや「実際に誰が選ばれるにせよ等価のドキドキワクワクが出せる」のならば──合格者ごとの面白さの違いをもしも計算してみたところで同じ値の面白さばかり算出されてしまうなら、計算なんて無駄、っていう理路はありうる、気がする……。だからこそ「気分で決めるしかなかった」とは、まあ言えるような。
▼▼気分で決めちゃってよいのかよー? っていうツッコミは思った、けど、別に気分で決まってもよいのでは? 気分で決めるしかないのでは? あたりの答えも出てきた。気分以外に何がある? 計算すれば気分を超えられるとでも言うの? あたりも(いやそれはそれで超えられる気もするけど……)


▼▼物語の必然性、というものが気になったっぽい。というか、物語の必然性、あたりの観念は以前から好きなものっぽい。
▼▼物語がそのように在らざるを得なかった、というような、物語の必然性、だ。
▼▼作家の気分や気紛れで、あるいはサイコロを振って、決めればよい──決まっても問題なさそう──決まってそう、あたりのことを思える物語を見た時に、物語としての必然性はなさそうだ、と思う癖があるのだな、ということを、今回自覚した。
▼▼計画や計算を、必然性、と絡めて見てるというか。重く見てる。濃く見てる。
▼▼あ、気分的、と、計画的、を対立させてるところもあるんだな。ここも、実際は、綺麗に対立させられるようなものじゃない、かとは思う。
▼▼長期的展望のもとで、綿密に計算し、詳細に計画し、丁寧に下ごしらえを済ませ、理想形や完成形や究極形を「ありうるもの」として、物語の形状を決める──決めてみせましょうと尽力する。▼▼油断なく設計し、これ以上はないと覚悟を決める。▼▼というような「一連の段取りを踏む」ことによって「必然的にそう在らざるを得なかった物語」が出来うるのだ、なんてふうに思ってるみたいである。期待してるみたいである。
▼▼だから逆に、行き当たりばったりの計画性のないやりかたで物語を進めていると、必然的にそう在らざるを得なかった、と言える形状からは、かけ離れたところに辿り着いてしまうだろう、なんてふうに思ってしまっているのだと思う。怖れてしまっているのだと思う。


▼▼必然的な物語、なんてもの、実際にはないのでは? 幻想では? 錯覚では? という疑義はある。というかむしろ、疑い前提だ。当然視も自明視もしていない。けど、疑いがありつつも類似した感覚を覚える瞬間はあって、思考時の素材として扱っているような時もあって、今回も自覚できたので、丁寧に解析し、掌握しておく、っていうようなことができないかなー、と改めて思ったのだった。幻想や錯覚が認識回路や思考回路に食い込んでしまってるなら──取り外せないのなら、なおのこと、位置や効果くらい把握しておくべきかなー、と思ったのだった。


▼▼事後的に振り返ってみて、必然的にそう在らざるを得なかった、んだな、というふうに見えることはまああると思う。
▼▼という時の感覚が基点になってる気はする。
▼▼という感覚を、ほかに勝手に援用して、物語の必然性、なんてものを自明視し始めたら、違うだろ、って言えるんじゃない、か、なー。
▼▼事後的に解釈できる夢見心地、を、最初から核に置き始めたら、ヤバイ、というか。
▼▼けど、物語を紡ごうとするなら、必然的にこう在らざるを得ない、というような、理想形/完成形/究極形を、いちおう想定してみせることで、やりくりしていくしかないんじゃないの? って気もする。神様を信じるみたいに念頭には置いておく、というか。意識できる範囲に置いといて敬虔さみたいなものが出てきてくれるようにしておく、というか。完璧な形状がありうる、と「信奉」して、一つ一つ、漸近させていく、というような意識による構成プロセス、が、やはり物語構築の基本なのでは? 
▼▼基本、かなあ?
▼▼必然的な、完璧な、物語の形状、なんてものは「ありえない」けれど、とにかく一つ一つ、ここはこれがよい、これは駄目、と判断して、足し引きしていく、という一歩一歩こそが、物語を形作るのだ、っていう意識だってある気がするけど。
▼▼必然的な、つまり、正当とか唯一解がどこかにあるような意識で物語を完成させようなんて甘っちょろいこと思ってんじゃねえー、意識をそんなところに向けてる暇があったら目の前のそれをちゃんと見ろ、ちゃんと見て、ちゃんと考えろ、一つ一つやれ、オマエが一所懸命に頑張って、尽くして尽くし切った先にあるものが、ただ、オマエに作れたものなんだ、出来て始めて、ただ、それが完成形だ、必然性どうこう言い出すならせめてそこにいったあとに改めて試行錯誤してみて、その時に、その観念を使え、使ってみたらまたいろいろ見えてくる、みたいな……。
▼▼宗派の違い、な気はしてきた。物語の必然性にまつわる宗派の違い。


▼▼週刊連載の長期連載漫画にまつわる話で、長期的な整合性を気にする/まったくぜんぜん気にしない/多少は気にしてるけど些細なものだとは思っている、矛盾があろうがなかろうが楽しめる/設定や展開の矛盾がおかしすぎて楽しめない、物語の流れを事前に準備しているにしても中期だったり長期だったりする、編集の都合で引き延ばしが起きた時に、引き延ばされても面白かったもの/引き延ばしたからこそより面白くなったもの/結局詰まらなくなってしまったもの、がある、などなどの違いを聞くことがある。
▼▼というような作家各位の指針の違いが、物語に影響を与えうるなら、その影響は、物語の必然性、なんてものを考えようとしてみた時に思い至るところと関係するんじゃないかなー、というようなことを思って、改めて考え始めた。のが思考の起点だった。