世界は称賛に値する

日記を書きます

映画『レディ・プレイヤー1』を観てきました

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▼▼映画『レディ・プレイヤー1』を観てきた。アーネスト・クラインのサイエンスフィクション小説『ゲームウォーズ』の実写化、映画化だ。世界が荒廃したのちの、電子世界、人工現実、が物語の舞台になっている。電子世界の中で振る舞うためのアバター(姿形)として、実際にある様々なゲームやアニメや映画のキャラクターが登場しているのが、話題だ。視聴後に知った隠しネタも多く、あまり気づくことができなかったな、という印象もある。けど、問題なく楽しめた。画面の迫力には圧倒された。3D版で観たのはよかったと思う。4DXでも観たかった気はする。いずれにせよ、かなり面白かった。
▼▼ごちゃ混ぜパロディは素敵である。オールスターは楽しいし、クロスオーバーも楽しいし、スピンオフも楽しい。スーパーロボット大戦やライダー大戦なんかの大戦物も現に人気である。というような流れは、人類に通底するやつなのだろうか、とは考えてみることがある。神話や古典なんかからも同様の流れが読み取れることあるからだ。
▼▼ぼくの好きな作品群、によって構成された──各位の趣味と経験に噛み合わせた『レディ・プレイヤー1/ゲームウォーズ』が、出来たらよいのに、なんてふうに思う瞬間もあった。呪文を詠唱するシーンで『スレイヤーズ』を想起したりもした(呪文詠唱が有名なイメージなのである)。じぶんにとってより昂奮するであろうネタ選びのやりかたが当然あるな、って思ったのだった。妄想がはかどった。とはいえまあ、比較的多数派な妄想だとも思う。妄想として異質、少数派、というほどではないと思う。二次創作としていくらか見かける機会のある妄想ではないかと想像している。かつて『バトルロワイヤル』的な「オールスター作品」も沢山見かけたし。


▼▼エンターテインメントだな、エンターテインメントとしてスゴイ、といった評価を下していることがあって、楽しさを受け取ってくれるであろう人類の範囲を拡げようとしている時に──拡大してやろう拡張してやろうという意志と意識が解釈できる時に、思っている気がする。万人受けを目指すぜ、という切り口に対しての、敬愛、賛美、って言えるところはある。が、万人受けを目指すにあたって削減せざるを得なかった「狭い範囲で有効な理屈」や「限られた空間内で練られた教訓」、というものに対しての、わずかな残念さや無念さも、まあ、混じっている気はする。▼▼楽しさの最大化、と、楽しさを阻害しうるものの最小化、に対しての、歓声と寂しさの混ぜ合わせ、を、物差しにしているんじゃないかなー、って思ったのだった。


▼▼慣れ親しんだ同じ挙動は躰をこわばらせていくものだ、と認識している。柔軟体操によって躰をほぐさないと駄目、とも思いがちである。こわばること、固くなること、かたよることを、否としている。この世での活動時間が長くなってゆくほど思う機会も増えているかと思う。逆に、慣れない動きが躰をほぐしてくれるじゃん、という認識も最近は保持中だ。▼▼というような「躰の硬直化」に対し、物理や生理さえもくつがえしうる電脳世界や人工現実といったものが、どれだけ有効だったりするんだろう、とは、少し考えてみることがあったりもする。柔軟体操的に使えたりするんだろうか、とは思う。期待したくなる。異世界が見せてくれる新鮮味が世界に対する硬直化をやわらかくしてくれるなら楽しそうだからだ。▼▼というようなストレッチ効果をあたえてくれるものとして、芸術、美、といった概念を見つめていることも、あるなー、とも思った。

ゲームウォーズ(上) (SB文庫)

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