世界は称賛に値する

日記を書きます

好きなもので楽しんでくれている姿はウレシイ、の基底

▼▼大変好きなもので誰かが昂揚し楽しんでくれていたら、妙に嬉しくなるけれど、見下しを交えつつ見つめてしまうような好きじゃないもので変にはしゃいでいる姿を見かけたら、白けたりもする。相手が知り合いか見知らぬ人か、好きな人か嫌いな人か、によっても印象は変質しそうだ。といった時の、基底にしてしまっているものってなんだろう、と思った。
▼▼好感があるかどうか 理解できるかどうか、親近感があるかどうか、好きな人と共感したい? 好きな気持ちを共感したい? 好きな物を知って欲しい? 好きな物が評価されて欲しい? ぼくと同じ気持ちを味わって欲しい? ぼくの気持ちを知って欲しい?


▼▼過度に共感を求めるのって、危険だし不遜だし、非効率ですらありそう、とか思ってしまっているところはあるのだけれど、でもまあ、ほどほどに求められることはよいことなのでは、と思うところもあって、前述したような要素やプロセスの整理によって、ほどほどさ、を、演出できるんじゃないか、調整できるんじゃないか、と、現状では考えたりしているのであった。
▼▼あとのほうで出てきた、ぼくの~がやっぱり危うそうだなー。
▼▼自意識、自尊心、自己顕示欲、虚栄心、等々まで繋がっていっちゃうと微妙、という形状になりそう。まあでも、このあたりを漂白したり、重心をじぶんから離したり、すれば、よい?のか? という疑問もある。単純すぎる安易すぎるという気はする。