世界は称賛に値する

日記を書きます

クダラナイ、ムナシイ、ツマラナイ、等々からの厭世(混乱中)

▼▼クダラナイ、ムナシイ、ツマラナイ、という三種の「世界に対する感覚」を発想してみて、これら三つとも思うことってあんまりないな、ということでもないのだけど、でもまあ「クダラナイ」に関してはほぼ見かけないかも、なんて思いついたりした。クダラナイとはぜんぜんエンカウントしない。
▼▼ムナシイ、が多少遭遇しやすいかなー。一番見かける気がする。
▼▼ツマラナイ、は、浮かび上がってくる瞬間も多少あるのだけど、脊髄反射で蹴っ飛ばして退場させてる気配がある。シンプルに嫌っているようだ。世界観に合わないという雰囲気かな。ツマラナイという言葉に居場所を許さない感覚だ。


▼▼苛立ちやノスタルジーによってぼんやりと黄昏れたり、いつか死ぬことを考えて静かに世を儚んだりする。というような場面での気持ちと、厭世的や虚無的な気持ち、世捨て人的な気持ち、などを、比較しながら、試行錯誤していたのだった。同じもの? けっこう似ている? ぜんぜん違う? と比べていた。
▼▼淡々とした眼差しは共通してる気がする、っていうのが最初の発想だった。
▼▼世界なんてクダラナイ/ムナシイ/ツマラナイというような言葉――世界の破滅や崩壊すら、望みうるほどの? 積極的に望むとまではいかないにせよ消極的には望むというか、破滅や崩壊を許してしまうような? あるいはまるで無関心な? 言葉、のようなものを眺めながら、読みながら、ああいった種類の言葉がじぶんから出てきていることって実はあんまりない気がするけど――でも、黄昏れた気分で夕焼け空や街並みを眺めてるような時ってあるけど、あれとこれって、同じなのかな? 違うのかな? って考えていたのだった。


▼▼世界がセピア色に見えるのとモノクロに見えるのの、違い、とかかなー。
▼▼すべてがフラットに見えるような観点と、すべてをマイナスにまで持っていってしまっているような観点、の違い、っていうのも思いついた。
▼▼世界に対する眼差しの「モード」が、切り替わってる、と考えるにせよ、切り替えに使っている機能、もしくは、切り替えるために使っているエネルギー、が異なる、というようなことも思いついた。
▼▼届かない何か――いつか夢見たもの(しかしそんなものはこの世界にはない)やもう取り返せないあの頃、に対する、愁いや哀しみのモード、と、あとは――比較対象は、うーん、なんだろ。憎しみとか苛立ちとか? なんか違う気もする。