効率性阻害用文学

▼▼効率性を武器に誰かしらを隅に追いやりかねないような雰囲気の言説を聞くことが少しあって、こういう雰囲気に抗うために――こういうものたちに対しての対抗手段ないし抵抗勢力の一つとして、文学、と言われるものがあるのかなー、とふと思った。文学をそういうふうに語る口ぶりを、これまで数回ほどは見かけてきた記憶があって、なんとなく思い出した。
▼▼文学という概念が担いうる機能、というか、見せる効果、というか、意味、もしくは文学というものの置かれる位置の、の中の、一つ――あくまで一つである、ということも思うところがあって、こういった雰囲気に抵抗せんがため「だけ」に「文学」というものがあるのだ、ということではないかとも思うのだけど……。文学というものは別に「効率性」というものを当然視するような空間を、阻害というか、補整というか、元に戻す/素に戻す「ためだけに」あるわけではない、というのは思うのだった。あくまで、文学というものの使いかたの一つ――こういう使いかたもある、という認識だ。


▼▼社会に比較的蔓延しているほうのものである(と思う)効率主義的な物差し、を武器にして――盾にして、人の排除を「あり」とする、ような情景を眺めながら、窮屈だ、と思った時に、文学が――文学的なものが、救い、というか、まあ逃げ道というか、もしくは可能性? 輝きや光? なんというか「改めて視野を拡げてくれるもの」「一つのものしか見えなくなっていた瞳に新たな光を見つめさせてくれるもの」として見えてきて、妙に、ほっとしたのだった。自縄自縛をほどくきっかけになってくれたと言える。
▼▼安心する材料を見つけられた――安心できる材料だと自分勝手に思った、というような言いかたはできると思う。文学、という概念を、非常に都合よく持ち出してしまった可能性は――可能性も、ある。ありそうかな。


▼▼じぶんもまた同じような視座で物を語ってしまっていることがはるはずである、近似した物差しで誰かに邪魔だよと言ってしまっていることがあるはずである、あるいは、そういう言説が許される空間の維持に荷担してしまっていることもあるはずである――。というようなことに対する、怖さや後ろめたさ、今後もしてしまいそうな不安、ではどうするかという時に正しいありかたが判らないことの困惑、などのことを思って、嫌な気持ちにもなりつつ、それらの嫌な気持ちを一時的に収めるものとして――うまいこと収めどころを作ってくれるものとして、文学、という概念を使ってしまったところも、ある。あるような気がした。ここもまた、都合よく当て嵌めてる――細部を誤魔化して大枠で扱っていい気になってる、等々については考えておく。


▼▼というような雰囲気で、文学、という概念を理解した気になってしまっているところがあるな、と思った。文学ってなんなんだよう、とか思いながら、こういう面での「使いかた」だけは、体感を組み合わせて、なんとなく判っているところ、としてしまっているところがあるかと思う。全体像は把握できないけれど使えるところは使っています、というやりかた、まあ、あやういはあやういかと思うので、気をつけたくはある。