世界は称賛に値する

日記を書きます

言葉の御者

▼▼行程を決めて、下準備も終えて、実際に始めてみたところ、わ!ここ準備しておくの忘れてた! あ!ここもやらなきゃいけなかったんだ! うわ!このあたりミスとかモレが多すぎ!チェック項目増やさないと! なんてふうに、あわあわすることが、かなり頻繁にある。▼▼っていうのと、叙述する前、一行で(あるいは、数行で)書き切れるだろう、と楽観してキーを叩き始めたら、あれ……? ぜんぜん終わらないぞ……、ここじゃ切れないな……、溢れて漏れる言葉を抑えようし始めたら切りがない……! なんてふうになった時は、同じ雰囲気あるな、って思った。
▼▼むしろどちらも同じ性癖──見逃しやすい性格や苦手な性格、サボりたがる場所、が引き寄せている状況なのでは? と思った。
▼▼でもって対比として、下準備や計画や指示が、華麗で、的確で、手慣れていて、ぜんぜん慌てない人だっている、というのと同じように、文章を書く行為にあたっても、ぜんぜん慌てずに、準備万端、進められるよー、という人がいるのかなあ、って考えていた。
▼▼心構えや下準備、経験則によって、事前に「掌握」し続けることが可能なのか言語というのは? というような疑問だ。膨張や爆発や暴走を御し続ける手腕を持ちうる? 管理下にある言葉だけで人は生きていける?
▼▼あわあわすることが言葉の本質だ、というか、掌握できない言葉の奔流を大切に、というか、言葉は暴れ馬のようなものなのだ、という理解を前提にしすぎてしまっていたところがある気がしたので、雰囲気やモードを変えようとしてみた、なんて言える。時々は切り替えて挙動の滑らかさや違いをチェックしておくことで長持ちさせられるだろう、という判断でもあるかなあ。
▼▼いっつも荒々しい奴、って固定観念でばっかり扱ってたら可愛そう、とかも、かな。