世界は称賛に値する

日記を書きます

ことばのデッサンの整理(昨日の整理)

▼▼文章におけるデッサン、っていう概念を昨日は思いついて、書いた。が、文章でデッサンする、っていう概念に対する認識は、改めて見直してみたら、だいぶ雑だった。粗く物事を書こうぜー、くらいの雰囲気で想像してただけだった。けれど、粗い文章を書くだけで「絵画におけるデッサン」になるわけではなくない? と思えてきた。
▼▼粗い文章(認識の解像度が?論理の接続が?)を書いてみたところで、とにかくただ粗いだけであって、デッサンではないだろ、というか……。絵画のデッサンは別に「粗い絵画」ではないだろ、というか……。
▼▼ことばのデッサン、ってものを考えようとするなら、粗さにばかり着目しててもぜんぜん駄目、って思ったのだった。
▼▼「ほぼ日刊イトイ新聞」の対談内で出ていた「文章を書くことの、デッサンにあたる部分って、なんなんだろう」って切り口が、むしろ大切なのでは? って思った。
▼▼粗く書くことでことばのデッサンになるよ、って雑認識を持ってた時は、背後に、粗い言葉を書くことのよさがある? というような疑問を抱えていたわけだけど、この疑問に対しては、まあとにかく粗くてもよいから数をこなすのがよい、精緻さを捨て時間をかけることを廃してがしがし沢山書いちゃおう、そのために粗く書いちゃおうぜ というようなことを思っていた、のだと思う。無自覚ながらそんな雰囲気があった、し、だからこそ、いや絵画のデッサンの目的って「一杯書こう」じゃなくない? いやまあ描いた数を増やすような狙いもあるにせよ、第一目的ではなくない? と思えてきたのだった。
▼▼絵画のデッサンにおける、狙い──学ぶべきもの──得られる技法および鍛えうる感覚、ってつまり、構図や構成のバランス感覚とか骨組みや枠組みの掴みかたとか、そういうような、全体感的なものであり、普段の目線などでは掴みづらいもの、とも言えるかと思うので──結果として粗さを利用しつつこれらを掴みに行く、みたいな切り口だろうと思うので、ことばにおけることのあたりを考えないと駄目、ってことなんじゃないか、と思ったのだった。
▼▼アウトラインエディタで書けるようなアウトライン、プロット書き、あらすじ、というあたりが、ことばのデッサン、文章のデッサン、にやっぱり関わってくるのかな、って気がしてきた。アウトラインやプロットやあらすじを書きまくる。まあ妥当かなあ。
▼▼デッサンが狂ってる、って言い回しを言葉にも向けられないと駄目? というようなことを思ってるところがあるな。ことばにはその言葉はそぐわない、でもよいけど。meltylove.hatenadiary.com